■伊皿子貝塚遺跡の調査[図38]

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 本区における遺跡の調査は、明治時代の終わりごろから規模の小さな発掘調査が行われていたが、昭和30年代になって芝公園丸山古墳群、三田亀塚、増上寺徳川家墓地など比較的大がかりな調査が行われている。伊皿子貝塚が初めて調査されたのは大正13年(1924)のことである。伊皿子貝塚は、港区三田4丁目の旧三井邸内に存在した縄文時代後期の貝塚で、付近から大量の貝殻や土器片が採取された。しかし学術的な調査を受けないまま壊滅してしまったと考えられていたが、昭和52年(1977)、ここに電々公社(当時)社屋建設工事が行われることになり、昭和53年7月から約1年6カ月をかけて、記録保存のための発掘調査が行われた。
 調査面積は約500平方メートルに及び、平安時代の住居跡、古墳時代の住居跡、弥生時代の方形周溝墓、縄文時代の貝塚と住居跡が順々に重なりあって発見され、多くの貴重な資料が得られた。
 調査の結果は『伊皿子貝塚遺跡』報告書としてまとめられたが、遺物の整理作業などのため、報告書の作成に至るまで実に3年9カ月を要した。
 伊皿子貝塚遺跡調査以後、旧芝離宮庭園遺跡と済海寺遺跡(57年)、芝公園1丁目遺跡と麻布台1丁目遺跡(59年)がそれぞれ調査された[注釈23]。

[図38]伊皿子貝塚遺跡の調査

関連資料:【学校教育関連施設】