図は港区総人口の推移である[図1]。
昭和15年(1940)まで30万人台を維持していたが、ここが港区の人口のピークだった。その後、太平洋戦争期にほぼ半減する。背景には、徴兵・戦時動員・疎開・空襲による住戸の焼失などがあった。終戦を迎えた昭和20年からは戦地からの復員、焼け野原からの戦後復興により、高度経済成長期の昭和35年ごろに25万人台にまで回復を見せ、このまま戦前のピークに近づいていくかに思われた。しかし、その後は長期的な人口減少期に入ることになった。背景には、多産多死社会から少産少死社会への転換という日本全体の特徴に加えて、昭和30年代後半の都心で進んだビル再開発という港区の特殊事情があった。特に昭和60年代の「バブル経済」の中で再開発が一層過熱し、不動産自体が投機の対象となって地価が高騰し、「地上げ過疎」という言葉が使われるほどの状況の中で、住民は一層減少していくことになったのである。バブル崩壊直後の平成8年(1996)には、史上最低の約15万人まで人口が減少したのだった。
[図1] 港区総人口の推移
出典:『港区まち・ひと・しごと創生総合戦略』平成27年度
大正9年(1920)から昭和25年(1950)の人口は国勢調査による。昭和30年以降は住民基本台帳による。大正9、14年、昭和5、10、15年は、港区の前身である芝区・麻布区・赤坂区の人口を合計した数値。港区は、昭和22年3月15日に芝区・麻布区・赤坂区が統合して誕生した
それに対して平成9年以降、地価下落によりマンションが次々と建設される事態となり、さらに区独自の転入者への家賃補助施策、さらには台場地区の開発も相まって、人口は増加に転じることになった。住民の「都心回帰」の動きは、これ以降今日まで基本的に変化することがない。
以上のような傾向は、学齢期の人口動態を見ても同じような特徴を見いだすことが可能である〔第1節第1項(1)24ページ[図1]を参照〕。
区全体の人口動態と同じように、戦前期にピークをつけ、戦時下に減少した。戦後になると、戦地からの引き揚げや第一次ベビーブームによって15歳未満人口も増加、昭和52年ごろにピークをつけた。さらに、平成8年にかけて減少し、そこで底を打って増加に転じている。
かかる学齢人口の増減を背景として、平成期の最初の10年は、以下で見ていくように、学齢期人口の減少に伴う学校の統廃合が港区教育行政の大きな課題に、そして平成期半ば以降は、一転して教室の増設や、時に学校の新設が課題となっていった。
以下、このことを念頭に置きつつ、各節のポイントを略述していこう。