港区の地理的な特徴として、台地と東京湾に囲まれた地域であることが指摘できる。その域内を古川が横切りつつ、武蔵野台地との高低差によって数多くの坂が存在する。台地によっておおむね東西に区切られ、赤坂、麻布、高輪などの地域が台地の上に存在している。このような地理的特徴が、台地の上の山の手地域と、湾岸沿いの下町地域という対照性につながり、多様な社会環境を生み出している。
山の手地域は住宅地や商業地であるとともに、多くの寺社や外国公館が立地する多様性を持つ。一方、下町地域は、東海道沿いの商業地域という性格と、明治以降に拡張された埋め立て地を中心とした工業地域という性格を兼ね備える。
台地による山の手/下町という差異だけでなく、区内中央部を流れる古川も、港区の地域的特徴を捉えるときに重要な要素となっている。古川流域には明治以降、洋家具の中小工場が進出し、新たな地場産業を構成した。また、第1次世界大戦以降、機械・金属工場なども見られるようになり、町工場の密集地帯が形成された。そのため内陸部の古川河岸を含む学区では、学区内に山の手と下町が併存する学区内多様性を生むこととなった
([口絵1]参照)。
旧『港区教育史』下巻(1987年)に掲載された各校の沿革と現状の「地域環境等」の項目を見ると、そうした地域的多様性が近年まで受け継がれていることがわかる。例えば、三光(さんこう)小学校の次のような記述には、港区域の文化的多様性がよく表現されている。
古川河岸の広尾原に続く低地から、白金台地の北側斜面に広がる地域が学区域である。古川ぞいには中小工場と商店街及び住宅がある。/現在では郵政宿舎・都職員住宅をはじめマンションが増えてきている。/またマンションに住む外国籍の子女も通学し国際色豊かになりつつある。
(旧『港区教育史』下巻、429~430ページ)
港区における地域変容を考える上で、関東大震災による震災とアジア・太平洋戦争による戦災という二度の災厄が及ぼした影響についても言及する必要がある。関東大震災では、当時の住宅の大半が木造だったため火災の延焼による被害が大きく、中でも芝区の被害が顕著で、焼失戸数で見ると区域の42パーセントが焼失した。赤坂区の15パーセント、麻布区の1パーセントと対照的な被害状況であった(1)。
震災復興では広範囲にわたって区画整理が実施されるとともに、路面の舗装や建物の鉄筋コンクリート(RC)化が進み、景観が一変したといわれる。こうした近代都市への転換によって、市民生活も大きく変化した。新橋駅を中心とした地域がビル街・繁華街となり、虎ノ門から田村町周辺はビジネス街へと変貌した。明治から大正期に埋め立てられた芝浦埋立地では工業も急成長し、日本電気、芝浦製作所、沖電気の他専売公社などの工場も進出して、大工場地帯という芝区域の地域的特徴が確立した。
震災復興が落ち着き始めた昭和6年(1931)に満州事変が勃発し、いわゆる15年戦争の時代へ突入した。次第に戦時色が強まってくると、物資不足に陥るなど市民生活に深刻な影響を及ぼすようになった。そして、戦局が悪化してくると、本土への空襲が繰り返されるようになり、終戦を迎える昭和20年には、港区域全体が空襲による大規模な被害を受け、区内の大半が焼け野原になった。
[図1-1] 愛宕山の景色
明治期の写真家・日下部金兵衛による撮影。
日本大学芸術学部所蔵
関連資料:【通史編4巻】3章概節1項 地域の被害状況