空襲による広範囲の被害に伴って、区外へ転居したものも多く、残った者は焼け残りのトタンで造られたバラックの家での生活を余儀なくされた。生活物資を入手するための闇市が、ターミナル駅を中心として形成され、新橋駅前は特に早く、終戦の翌々日には2~3人の露天商が商いを始めていたとされる(2)。桜田小学校創立95周年記念誌『さくらだ』には、当時の焼け跡生活と学校の様子について、次のような記述が見られる。
集団疎開地の残務整理を終え、主力より一ケ月おくれて新橋に立った私たちが驚いたのは有名な闇市の繁栄であった。(中略)けんかは日常茶飯事であり、闇市にあつまった人々の糞便で、校舎と塀の間は足のふみ場もなかった。戦前から入っていた食糧公団は依然として現在の校長室の隣を使用していた。(中略)公園のあづまやは浮浪者で一ぱいであり血便を流しながら校庭の水道へ水をのみにくる者もいた。
(『さくらだ 東京都港区立桜田小学校創立95周年記念・東京都港区立桜田幼稚園開園10周年記念』昭和46年、54ページ)
浮浪者には、戦災で親を亡くした戦災孤児などの浮浪児も含まれ、全国有数の闇市を形成した新橋駅周辺にも多く存在した。浮浪児は「狩り込み」により保護され、品川第五台場に設置された孤児浮浪児収容施設「東水園」などに収容された。東水園は高輪台小学校分校として位置づけられ、収容児はそこで学校教育を受けることができた(3)。
占領期の混乱を経て、昭和27年(1952)に国際社会へ復帰すると、日本社会は数年のうちに高度経済成長期に突入し、港区域も町の様子や区民生活が大きな変貌を遂げた。放送・通信の拡張に伴って、港区の象徴とも言える東京タワーが昭和33年に竣工した。モータリゼーションによる自動車数の急激な増加によって高架式の首都高速道路が建設され、さらに東海道新幹線も開通し、オリンピックを前にしたインフラ整備が進んだ。
戦前は銀座線のみだった地下鉄は、昭和30年代以降次々に新路線が設置され、日比谷線の開通による六本木の繁華街化や、三田線の開通による御成門や泉岳寺付近のビジネス街化につながった。また、昭和42年から44年にかけて都電が撤去されて都営バスに移行した。このように、市民の移動手段も含めて町の様相が大きく様変わりし、「港区中の地面が掘りかえされる有様」といわれるほどだった(4)。
こうした経済成長に伴う社会変化が、ドーナツ化現象を招き、夜間人口の減少につながるとともに、騒音・大気汚染、日照障害、風害といった公害や都市問題を引き起こした。このような傾向は、昭和48年のオイルショックで高度経済成長期が終焉(しゅうえん)した後も続くことになった。
平成期になると、市街地ではバブル経済による再開発が進む一方、臨海部の台場地域が東京臨海副都心として開発が進み、お台場海浜公園や商業施設とともにタワーマンションも建設された。そのため、子育て世代を中心として居住人口が増加するとともに、子どもの数も増加し、港陽小学校などの教育施設が整備された。
ところで、現港区は戦前の旧芝区・麻布区・赤坂区が合併して生まれたが、その過程で、芝・麻布・赤坂の各区から3区合併に対する反対意見が出された。いずれの区も、芝区と麻布・赤坂区の2区編成を希望し、その理由は「地理的な実情」や「民情の相違」であった(5)。つまり、下町の芝と山の手の麻布・赤坂では、地理的条件が地域性の差異につながり、住民もそれを自覚していたことを示している。そこで、それぞれの地域社会の変容がどのように異なっていたのかを概観したい。
[図1-2] 施設に収容された浮浪児
品川沖第四台場にあった浮浪児収容施設。
出典:平凡社『日本現代写真史1945-1970』昭和52年、毎日新聞社提供
関連資料:【通史編1巻】序章1節2項 震災と戦災を越えて
関連資料:【通史編6巻】5章概節1項 当時の状況