麻布・赤坂を主として構成する山の手地域は、江戸時代より寺社や武家屋敷が多く占める土地柄であった。明治3年(1870)の時点で武家地は約6割だったが、明治新政府による土地の接収、大名屋敷の引き揚げによって士族層が流出して、大幅に人口が減少した。その荒れ果てた武家地を活用するために、桑や茶を植えて生産する桑茶政策を進めるもうまくいかず、その後、軍用地や官公庁、あるいは皇室用地などとして利用されるようになり、外国公館や新政府の官僚などの邸宅も進出した。武家地の再利用を通じて近代日本の中核を担う地域性が生まれたといえる。
こうした明治期の状況が、緑の多い閑静な環境、住宅地としての性格、大使館などによる地域の国際色といった、現在に至る麻布・赤坂地域の特性につながった。震災被害は比較的少なかったものの、戦時中の空襲では芝区域以上に甚大な被害を受け、一面焼け野原になったが、前述の地域性はその後もおおむね維持されている。
ただし、高度経済成長期とバブル経済期の二度の再開発を経ることで、一部地域で高層ビル化や再開発が進むとともに、青山通りや六本木通りなどの主要幹線沿いを中心として繁華街化した。こうして、閑静な住宅地と、赤坂や六本木などの繁華な街が併存する地域性が確立した。
芝区の下町地域は、江戸時代から街道沿いを中心に、商人・職人の町が形成されていた。それが、明治維新後になると、新政府による富国強兵政策の下、官営工場が設置され、近代化・工業化を先取りする地域ともなった。また、隣接する京橋区の銀座煉瓦(れんが)街や、新橋ステーションの開業などを受けて、西洋化もいち早く進行した。そうした町の変貌を受けて、新しい地場産業として洋家具業なども発展した。その一方で、湾岸地域には漁師町の一面があり船宿も多く見られた。近代化の進行に伴って漁村の性格は後退するものの、古川河口付近には今もその面影が残る。
このように、西洋的町並みと商人・職人や漁師の町という対照的な地域性を備える芝区域であったが、明治10年代末から20年代前半にかけて、金杉新浜町の芝浦製作所、本芝入横町の池貝鉄工など、工場地帯形成の萌芽も見られるようになった。そして明治後期、日清戦争を経て産業革命が始まると、湾岸地域へ工場が次々に進出して芝浦埋立地の工業化が進み、新しい工場地域を形成した。
明治末~大正期には、芝浦地域の埋め立て・工場進出に加え、旧東海道沿いがさらに商業地化することで、地方の農村部から大量の人口が流入し、新しい住宅地域・商業地も形成された。このように、芝区域では、中小の商工業層を中心とする町から、西洋化という時代の流れを受けつつ、湾岸地域を中心に工業地域としての性格を強めていった。その後、消費社会の到来により、新橋駅を中心とした繁華街化も進んだ。戦後になって、高度経済成長および高層ビル化が進むと、広域に及ぶオフィス街という現在の芝区域の性格が確立していった。
ここまで港区域の地理的特徴をおおまかに整理したが、その中で注目すべきことは、埋め立てによって繰り返し土地が拡張したことにあるだろう。そこに、工場だけでなくアパートなどの住宅が建設されることで、人口も流入した。昭和戦前期、高度経済成長期、そして平成期と、3度(芝浦、港南、台場)にわたる拡張した土地への住宅進出に伴って、児童数が増加し新たな教育施設が設置されたという特殊な地域性を有している。