日本の近代学校制度は明治5年(1872)の学制によって始まった。港区域においては、明治6年の時点で公立小学校は鞆絵(ともえ)・桜川・御田(みた)・赤坂の4校であった。さらに学校の設置は続き、明治12年には13校体制となった。その後、明治27年に中之町小学校が、赤坂小学校の分校という位置づけから独立校化した以外は、明治35年に愛宕小学校が新設されるまで変化が見られない。この時期は、公立小学校の構成は安定期を迎えていたといえる。
しかし、当時は私立小学校の方が公立小学校よりも校数が多かった。明治6年では公立4校に対して私立68校と大きく凌駕(りょうが)していた。こうした状況は、江戸時代に街道筋を中心として存在した寺子屋の多くが、私立小学校に転換したことと関係する(本巻第2章参照)。明治前期、公立小学校は富裕層を中心とした少数派であり、商工業層などの庶民向けの学校として私立小学校が多数存在した。こうした私立小学校は、明治後期になると公立小学校に取って代わられることとなる。
産業革命・工業化により、明治後期以降芝区域を中心に人口流入が顕著となり、このことが各校での就学児童数の増加につながった。次第に教室不足が深刻となり、各校増改築を繰り返すことになったが、先述したように、明治35年まで公立小学校は新設されなかった。明治30年代以降、人口増・就学率向上によるさらなる学齢人口増加により2部授業が拡大していくと、既設校の増改築では対応しきれなくなり、明治35年設立の愛宕・三河台・本村の3小学校開校を皮切りに、公立小学校増設の動きが広がった。さらに明治41年には義務教育年限が4年から6年に延長され、教室不足に拍車がかかったため、明治40年代には続々と学校が新設された。
公立小学校の児童数増加は、人口増や義務教育年限延長だけによるものではなかった。明治23年の小学校令で私立小学校を公立の代用と認める制度が定められていたが、明治40年小学校令改正によって代用小学校制度が廃止された。その影響で私立小学校が次々と閉校になり、小学校教育は公立中心へ移行することとなった。