高度経済成長期の昭和35年(1960)に、港区の人口は戦後最高の26万6757人となる。しかし、その後の再開発などにより居住地域が減少した結果、ドーナツ化現象によって再度人口は減少する。芝地区のオフィス街化による人口減・児童減は、西桜(さいおう)小・南桜小の統廃合による桜小の設置(昭和39年)、愛宕中・北芝中の統合による御成門中の新設(昭和44年)など、学校数への影響も見られた。
ここで、桜小学校発足の経緯を見てみたい。港区人口が横ばいになった昭和30年頃より、新橋から虎ノ門にかけての愛宕地区北部がビジネス街化し、住宅が減少した。それに伴い、昭和30年代には桜田、西桜、南桜の各小学校で児童数が急減した。そこで、昭和37年9月に学校統廃合調査委員会が立ち上がった。3校を統合する案も出たが、最終的には昭和39年に南桜と西桜が統合して桜小学校が新設された。
港区議会文教常任委員長の山田敬治は、当時の社会状況について次のように述べている。
御承知の通り最近の都心部は、我が国の異常な経済文化の発展に伴ないまして、ビルラッシュが相次ぎ夜間人口の著しい減少をみるに至りました。そのあをり(ママ)をうけて、学令児童の数も又年々減少の一途を辿っております。
(『さくら』創刊号、昭和40年、11ページ)
夜間人口の減少による学校統廃合が見られる一方で、湾岸地域、特に港南地域では対照的に、都営団地をはじめとして埋め立て地に住宅が進出することで児童数が増加し、昭和38年に港南中学校、翌39年には港南小学校が設置された(昭和38年に芝浦小分校として設置されたものが独立校化)。
平成期に入ると、旧市街地での児童数がさらに減少し、港区立学校適正規模等審議会の最終答申(平成元年)に沿って学校統廃合が実施された
(詳細は『港区教育史』第7章を参照)。それに対して、台場地域では開発が進み、同地域の子ども数が増加した結果、港陽小学校や港陽中学校、にじのはし幼稚園が設置された。
以上見てきたように、港区域では、山の手・下町の旧市街地で児童数や学校数が減少する一方で、臨海部の埋め立て・開発が段階的に進むことで、土地が拡張するだけでなく、その地域に居住者が転入することで、教育施設が外へ外へと進出することとなった。この人口動態のギャップに港区の地域特性が見て取れる。
このように、地域変容と人口の増減が、学校の新増設や統廃合の動向と相関する形で推移した。ただし、そうした学校を巡る動向は、行政側の意思だけで動くものではなく、地域住民との関わりの中で進められたという視点を踏まえる必要があるだろう。そこで、次節では地域住民と学校の関係を見ていきたい。
[図1-7] 高度経済成長期の新橋駅周辺
ビジネス街化が進み児童数が急減した。
港区立郷土歴史館所蔵