このような学校と地域社会との関係をより具体的に知るために、戦後一度閉校となり、その後再度開校することとなった飯倉小学校の事例を見てみたい(8)。
東京都心部最後の大規模空襲となった昭和20年(1945)5月25日の空襲により焼失した飯倉小学校は、当時の校長の「愛すればこその廃校」との考えから、翌年3月末にそのまま閉校となった。その後戦災復興事業が始まり、飯倉小校地が区画整理の対象となった。この区画整理では幅員の大きな環状路線が敷設されることとなり、その結果「児童は輪禍の危険にさらされる」ことになった。飯倉小地域の児童は南山、麻布、赤羽小学校などへ通学することとなったが、遠距離のため安全な通学は困難であった。そこで、同年8月に地域住民11人による再建運動委員会が結成され、11月末には区議会議員17人が港区議会に飯倉小学校再建を建議し議決された。
区画整理が進行すると、元々の校地が821・1坪と狭かったこともあり、換地後は分散地の形で790坪(うち最大の敷地は366坪)となった。ただし、これでも地元区民にさらなる減歩(げんぶ)を求めるという「犠牲」によって実現したものであった。しかし、学校建設のためには1500坪ほどの土地が必要であり、地所の拡張が求められた。そこで、戦前に一度移転候補地となっていた隣接地の白石邸を取得することを検討したところ、日本タイヤ株式会社(現・株式会社ブリヂストン)に所有者が移っており、社員住宅が建設予定であることが判明した。そのため、再建運動委員会の面々や麻布支所長らが、白石邸との交換地を探したものの見つからず、一時は区議団らから飯倉小学校再建を放棄するとの通告も受けて「絶望」的な状況に陥った。
そこで、状況を打破するために「皆で立ち上がろう」ということになり、昭和24年4月に、全地元住民を会員とする飯倉小学校建設促進会が結成された。建設促進会では基金の募集をするとともに、一層の陳情活動を進めた。しかし、約1年にわたり数十回の交渉をしたものの事態は好転せず、同年11月には日本タイヤ社長石橋正二郎のもとへ陳情に赴くこととなった。そのときの様子は以下のように記録されている。