まとめ

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飯倉(いいぐら)小学校の事例は、一度閉校になった学校を再建するというまれな事例ではあるものの、戦後の困難期における学校と地域社会との強固な関係性を示すものとして特筆すべき事例であろう。各校の沿革に目を通すと、このような両者の関係性は、程度の差はあれ、いずれの学校においても見られたものと推測される。
一方で、地域住民と学校あるいは教育行政との関係は、常に順風の協力関係であったわけではない。少子化に伴う近年の学校規模適正化など、学校の閉校につながる事態では、地域住民から統廃合に反対する意見や、丁寧な合意形成を求める声も出された。「開かれた学校づくり」が求められている近年の教育環境を考えるならば、地域社会との連携・協力のもとに設置維持されてきた学校の歴史的性格を十分に踏まえる必要があるだろう。
港区は、近現代日本が直面してきたあらゆる事柄を、時には先駆的に経験してきた。すなわち、近代国家の建設、産業革命、都市社会・大衆社会化、関東大震災と復興、アジア・太平洋戦争と空襲、占領期の社会的混乱、高度経済成長と公害、少子高齢化社会の到来、バブル経済と再開発などである。そのように考えるならば、港区は日本社会を象徴する地域性を有していると言えるだろうし、激動の時代をともに歩んできた学校と地域のあり方や子どもの生活の姿は、日本の教育の行く末を見通す上でも、大きな示唆を与えてくれるだろう。
多様性の尊重が求められる現代社会において、歴史の荒波の中で港区が築いてきた地域的多様性は、多様な他者が織りなす多文化共生の社会を先取りするものでもあろう。地域社会の国際化やさらなる少子化、SOCIETY5・0への対応など、新たな課題に直面する中で、港区における学校と地域社会の関係性は、共生社会を実現する上での羅針盤ともなり得るのではないだろうか。


(1)  『港区教育史』第3章、p.8。なお、焼失面積で見ると、芝25・7パーセント、麻布0・5パーセント、赤坂6・5パーセントだった(『みる・よむ・あるく東京の歴史3』吉川弘文館、2017年、p.99)。
(2)  『港区史』下巻、1960年。橋本健二・初田香成編『盛り場はヤミ市から生まれた』青弓社、2013年。
(3)  藤井常文『戦争孤児と戦後児童保護の歴史』明石書店、2016年。高輪台小学校「学校沿革誌」。
(4)  『港区教育史』序章p. 39
(5)  『港区教育史』第5章p. 12。『新修港区史』1979年、pp. 800 - 807
(6)  『港区教育史』第4章pp. 91 - 92
(7)  『芝浦』第6号(創立20周年記念号)、芝浦小学校、1962年、p.4
(8)  『いいぐら』創立80周年記念号、飯倉小学校、1959年。『いいぐら』創刊号、飯倉小学校、1955年。