江戸時代では、それぞれの地位と生活様式に応じた、さまざまな学習内容や組織の形を採った学びの場が設けられていた。おおよその種類を挙げておきたい。
まず、士身分男子が統治者としての教養を身につけるために設けられた学びの場である。幕府直轄の学校や藩が設ける藩校では、儒学、特に寛政異学の禁(寛政2年=1790)以降では、幕府の「正学」とされた朱子学(しゅしがく)が主に学ばれた。幕末になると、危機に応じて洋学の学術や軍事、国学も追加されていった。『港区教育史』序章によれば、港区域には、幕府直轄学校である湯島聖堂(文京区)の出張所である城南読書楼が現在の南麻布に設けられた。藩校については、藩領にある藩校本体とは別に参勤交代などで江戸に在勤する者を対象とした藩邸内学校が設けられた。麻布にあった土岐家沼田藩(群馬県)の屋敷内には弘化元年(1844)に敬脩堂(けいしゅうどう)が設けられた。
つづいて、郷学(ごうがく)である。郷学の特徴は、対象が庶民、男女に開かれており、設置運営が藩、有志や集落からの出資金によっていた。教育内容は、設立目的によって異なる。古い歴史を有するものとしては、岡山藩の閑谷(しずたに)学校(備前市)や大阪の含翠堂(がんすいどう)(大阪市平野区)が著名である。ただし、郷学については、明治政府の成立後に設けられたものも多い。港区域でも同様である。節を改めて詳しく紹介したい。
そして、私塾と寺子屋である。こちらの特徴は、庶民、男女に開かれており、設置運営を授業料収入および家や教師個人の持ち出しによっていることである[口絵2]。設立の自由度が高いため一概にまとめられないが、寺子屋は手習い(習字)を核として(ゆえに手習塾とも呼ばれる)、読み物教材である往来物や珠算といった基礎的な内容を扱う。時には裁縫や謡も稽古される。私塾は、儒学、洋学、国学、詩歌などの学術的で教養的な内容を扱う(ゆえに学問塾とも呼ばれる)。ここでは、港区内各地域でも異なる特徴的な設置がなされ、「学制」以降の私立小学校にも発展していく寺子屋を詳しく取り上げる。ちなみに港区域の私塾としては、幕末設立の慶應義塾(福澤諭吉/慶應義塾大学)や攻玉(こうぎょく)塾(近藤真琴/攻玉社中学校・高等学校)などがある。詳しくは『港区教育史』第1章や現存する各校の沿革を参照してほしい。