先ほども触れたように、江戸時代は住む場所や立場によって人々の生活は大きく異なっていた。港区域は武家地を主とする赤坂と麻布、多くの町人地がある芝に分かれる(本巻第1章参照)。この地域柄の違いが、寺子屋の分布や内容にも反映されていた(2)。明治17年(1884)から明治18年にかけての調査によれば、明治4年までに江戸市中で293カ所、現在の港区を構成する芝・麻布・赤坂の旧3区で52カ所の寺子屋が開業されていた。このうち、芝区は35カ所、麻布区は13カ所、赤坂区は4カ所であった。3区の人口比率を考えると、開業の密度に大きな差があることがわかる。武家地よりも町人地の方が数多くの寺子屋が設置されていた。師匠の身分については、江戸全体の傾向として武家地では武士、町人地では町人が多く、地域柄がそのまま反映されている。
武家地に寺子屋が少ない理由として、武家の子弟は自宅や藩邸における学習によって読み書きを学ぶことができること、非番や副業として手ほどきをする者や国元との往復により短期間で閉(と)じられることが多いことが挙げられている(3)。
取り扱う内容についても、武家地と町人地で違いがあった。赤坂などの武家地では「手習」のみを扱う寺子屋が多く、「手習・読書・算盤(そろばん)」の読み書き算全般を扱う寺子屋はほとんど見られない。対して町人地では、全く逆の傾向を示していた(4)。寺子屋における「読書」は、生活に必要な語句や手紙のやり取りの際の慣用表現を身につけるために編まれた教材である往来物の学習が主であった。四書五経といった儒学の書物を扱うことはまれで、扱われたとしても素読(漢文の読み下し方)の水準までであった。また、武士にとって算盤は下級の者が扱うものとされた。読書は、藩校や私塾でより高度に学ぶべきものであり、算盤は必須ではなかった。対して、町人にとって算盤は必須である一方で、リーダー層を除いて高度な学術までは必須ではなかった。ゆえに町人地の寺子屋では初歩的な内容が幅広く扱われた。
手習いでは、「いろは」「国尽」「名頭(ながしら)」「千字文」「江戸方角(東京方角)」「都路(みやこじ)」「消息往来」「商売往来」といった往来物や漢数字が多く扱われた。「江戸方角」や「商売往来」といった往来物は江戸に特徴的だといえる[図2―1]。日用の物書きで頻出する語句をいろはや漢数字から学び始め、手紙のやり取りに用いる慣用表現を学ぶところで一つの区切りとする。この順序は全国的に異なるところはない。武家地では「商売往来」は好まれず、「千字文」や初歩的な漢籍が好まれたという(5)。