〔(4) 武家地の寺子屋 赤坂・歳泉堂〕

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港区域に設置された寺子屋として、江戸幕府御家人が運営した赤坂の歳泉堂のことを紹介したい(6)。
歳泉堂は、大奥の取り締まりや江戸城諸門の通行証の発行を担当する幕府御留守居同心を代々務めてきた御家人山本家が開いた。山本家の屋敷は最下層の御家人であった黒鍬(くろくわ)之者(江戸城内の雑役、将軍が出行する際の運搬や通信の業務に当たる)の組屋敷の一角にあった。歳泉堂は山本遥秀によって安政3年(1856)に設けられたが、その祖父の粂八が寛政2年(1790)に「御家流筆学所」を設けていた。御家流とは尊円流・青蓮院流ともいい、武家の公式文書に用いられるスタンダードな書体であった。粂八の子で遥秀の父である房五郎が継いだが、公務が繁忙になったため文政12年(1815)に閉じられた。歳泉堂は山本家にとって40年ぶりの寺子屋開設であった。扱う内容は習字のみであった。遥秀は4歳より父より手習いを伝授された。8歳からは著名な御家流師匠であった麹町(千代田区)の土居丈谷の下で15年間にわたり筆道修行をしている。遥秀は、その後天保14年(1843)より嘉永3年(1850)の間、幕臣より儒学の手ほどきを受けている。
当初の門弟は50人ほどであったが、万延年間(1860~1861)には250人、慶応年間(1865~1868)には380人を数える盛況となった。この規模は港区域最大である。しかし、戊辰戦争(1868~1869)において諸侯が国元に戻ると生徒の退学が相次ぎ、120人まで落ち込んだ。遥秀の学習歴、副業としての経営、習字のみの内容、そして武士の移動による衰退などは、武家による寺子屋の特徴を表している。この状況で歳泉堂は「学制」を迎えた。
関連資料:【通史編1巻】序章2節2項 区内の寺子屋
関連資料:【文書】明治初期の家塾と私立学校