〔(3) 仮小学や郷学(ごうがく)から公立小学校へ〕

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ここまで紹介してきた仮小学や郷学は、明治5年(1872)「学制」の後に設立された公立小学校につながっていった(10)。明治6年に、仮小学は鞆絵(ともえ)学校に、育幼社は桜川学校に、開蒙社(かいもうしゃ)は御田(みた)学校に、習学所は茜陵(せんりょう)(赤坂)学校になった。三田4丁目の学舎は明治7年に南海学校となった。
明治8年以降に設置された小学校は、「学制」以後の新設にかかるものである。とはいえ、有志の発意で地域の寄付金を募ったり土地の提供を受けたりする形は同様であった。明治8年設立の麻布学校は西洋風の校舎を建て、近隣の寺子屋起源の私立小学校の門弟を移行させて設けられた。明治11年設立の飯倉(いいぐら)学校もまた、寺子屋起源の私立小学校の教師や門弟の一部を引き受ける形で設けられた。「学制」が廃止された明治12年までに港区域に設置された小学校の一覧は、[図2―3]の通りである。
各校の設立願書には、学科として「小学」と掲げられている。「学制」においては、それぞれ4年を修学年数とする下等小学と上等小学が設けられた。下等小学への就学年齢は6歳であった。
「学制」で示された下等小学の教科は、綴字(読并(ならびに)盤上習字)、習字(字形ヲ主トス)、単語、会話、読本、修身、書牘(しょとく)(解意并盤上習字)、文法、算術(九々数位加減乗除 但洋方ヲ用フ)、養生法、地学、理学、体術、唱歌であった。唱歌については、当分の間欠くものとされた。上等小学には、さらに史学、幾何学、博物学、化学の大意が課された。
[図2―4]は、明治11年に実施された試験の科目表である。かねてより当時の社会一般が求めるニーズや水準との落差が問題視されていた「学制」の教則は、その末期では各府県の判断で手直しすることが認められていた。東京府は下等小学を半年1級として6級3年間にわたる「尋常科」に改めている(明治11年)。図に掲示された試験内容が、実際に授けられた内容と児童が到達可能だった水準を示していると考えられる。試験では、『小学読本』『地理初歩』『日本地誌略』『日本略史』『物理階梯』といった広く用いられていた書目が取り上げられた。これらは読み方、内容理解の問答や書き取りを通じて課された。また算術は珠算と筆算(洋算)の双方が課された(11)。作文としては簡易な手紙文から証書類の文章、最上級では論説文も課された。


[図2-3] 学制期に設立された港区域の公立小学校

14校の学校が設立された。
出典:『港区教育史』第1章



[図2-4] 「学制」時代における試験教科

教則は、教師が講習を受けた師範学校のものに即したものが主流となった。
東京都公文書館所蔵

関連資料:【通史編1巻】序章3節1項 区立13小学校の設立
関連資料:【通史編1巻】序章3節2項 (1)公立小学校の設立とその移り変わり
関連資料:【通史編2巻】1章概節3項 (1)公立小学校と私立小学校の関係
関連資料:【通史編2巻】1章1節2項 港区地域の小学校の設立過程
関連資料:【通史編2巻】1章2節2項 「小学教則」の実施