港区域を含む東京府においては、名称と組織を私立小学校に変更しながらも多数の寺子屋が存続した。しかし、こうした事態は全国的には異例であった。
明治5年(1872)8月2日に「学制」が布告された翌日の8月3日、文部省は既設の教育機関を「学制」に則らせることを意図して、そのすべてをいったん廃止し、改めて設立し直すように求めた(布達第13号)。先に紹介した仮小学や郷学(ごうがく)から公立小学校への再設置は、この指令への対応であった。寺子屋や私塾も同様の対応によって存続可能であった。しかし実際のところ、ほとんどの府県では、既設の寺子屋は「学制」布告後の再設置が認められなかった(私塾も同様)。廃止するか非公認の形で存続せざるを得ないことになった。「学制」では、示された教科や学ぶ順序を踏襲しない小学校を「変則小学」として位置づけていた。「学制」に示された教科を準備できない学びの場の設立を禁じたわけではない。しかし、府県のほとんどは、寺子屋を模様替えしたような「変則」の小学校を認めることが「正則」の学校教育の発展の妨げとなると判断し、公認せずに排除した。
これに対して東京府は、まずは変則小学も認めた上で、漸進的に内実を整えさせるという方針を採った。また、他に田畑などの資産も有する郊外の師匠とは違い、東京の師匠には寺子屋を家業とする者も多かった。後の回想記事によれば、一挙に寺子屋を廃止すると師匠が路頭に迷ってしまうことを憂えた当時の府知事大久保一翁の配慮もあったという(12)。
明治4年までに江戸市中に設置された293カ所の寺子屋のうち204カ所が私立小学校に転じている。芝区では35カ所のうち27カ所、麻布区では13カ所のうち8カ所が、赤坂区では4カ所すべてが私立小学校に転じている(13)。ただし東京府は、寺子屋がそのまま私立小学校にスライドすることまでは認めていなかった。東京府は明治5年11月に、寺子屋に対していったんは「家塾」(「学制」では、教員免許がない者が私宅で教授する変則小学のことを指す)としての設立願書を提出させている。また、明治6年2月に「東京府管下中小学創立大意」を出し、従来の学舎をそのまま用いつつも教授法を小学教則に改めるよう求めた。加えて、教授法の改良について講習を受けることも求めた。そして、明治6年4月には小学講習所(後の青山師範学校)が設けられた。ここでは、1日5時間の講習がなされた。〈寺子屋の師匠〉は講習を修了することで〈私立小学校の教師〉になるための資格を得られた。
先に取り上げた、赤坂の歳泉堂もまた私立小学校に転じている(14)。校主の山本遥秀が後に作成した履歴書によれば、明治6年に師範学校で小学教則について学んだことが記されている。さらに歳泉堂では、同年3月に新たに外から教師を雇い入れた。歳泉堂の歴史では初めてのことであった。そして明治7年12月に、私立小学校としての設立が認められた。まもなく校名を「山本学校」と変更した歳泉堂は、徐々に強まる教則や設備への締めつけに対応しながら明治30年まで存続した。
また、[図2―5]のように港区域での小学校設立数は圧倒的に私立が多かった。『港区教育史』第1章によれば、「学制」布告後10年以上経ってようやく、私立の児童数を公立が上回ることになった。従来寺子屋として使用していた自宅などを流用した私立小学校は、経営規模から言っても地域全体に支えられた公立小学校に比べて貧弱であったことは間違いない。しかしながら、明治前期における東京・港区における子どもたちの学習機会を充実させたのが、寺子屋起源の私立小学校であったことも間違いない。