就学の状況を計る最重要の指標は就学率だった。就学率は、学齢児童(3)として区が管理する学齢簿に登載され、就学の始期に達した者のうち、「就学」に当たる者の割合として算出された。
[図3―2]は学齢児童数のグラフである。明治30年代の、中頃にかけて減少が見られることには後で触れるが、それを除きおおむね増加傾向にある。港区の前身である芝、麻布、赤坂の3区(以下「3区」という)の中では芝区の学齢児童数が多い。面積が広い上に、いわゆる下町の地区を含んでおり、人口が多いことが背景にあるだろう。
この時期は、「尋常小学校ノ教科」を修めている者とそれを卒業した者を(4)、「就学」としている。
[図3―3]は就学率のグラフである。3区、市部計、市郡計とも、明治30年度にはおおむね50パーセント台から70パーセント台半ばの間だったのが、明治40年度には90パーセント台半ば以上まで上昇している。3区を比較すると、赤坂区が最も高く、麻布区が明治34年度にかけて急激に上昇してそれに次いでいる。芝区は上昇が遅い。なお、当時一般に見られたことだが、各区、市部計、市郡計とも、男子より女子の方が就学率が低い。
以下、第1節で統計上「就学」となるさまざまな形態やその状況を、第2節で統計上の「不就学」について、第3節では就学統計上に表れない子どもについて見ていく。