教育史研究者の土方(ひじかた)苑子(そのこ)は、明治30年代はじめ頃までの東京の初等教育の状態を、「親の属する社会集団による棲み分け」ととらえ、「初等教育は公立小学校、私立小学校、貧民学校と層をなしており、それらは主として「名望家」層、「平民」層、「貧民」層を背景にしていた」と述べている(12)。
公立小学校は、費用負担・運営ともに区(市の行政区であるとともに、学校財産の設置管理主体でもあった)が行うこととなっていたが、その費用は高額の授業料によって賄う部分も多かった。この授業料を負担できる保護者は限られており、また、これらの保護者やその子が集まる学校の体質によっても、低層の子どもは公立小学校から排除された。名士や有産者などの「名望家」層は、低層の子どもと一緒の教育を嫌い、この「棲み分け」の状態に対して肯定的で存続を望んでいた(13)。