しかし明治30年代には、行政の政策は、この状態と相いれないものとなった。以下詳細は略すが(14)、明治31年3月には、文部大臣から東京府へ、「教育ノ整備」の観点から、現に「学齢児童ノ六分ノ一」を収容するにすぎない公立尋常小学校の増設に東京市に注力させるよう勉めるべしと訓令した。これ以後、財政負担に関するものを含む府、市のさまざまな施策があって、公立小学校が増設されていった。また、明治33年「小学校令」で公立尋常小学校の授業料が制限されたことにより、東京の公立小学校関係者、私立小学校関係者、区長や国会議員などの反対にもかかわらず、市内各区尋常小学校の授業料が月20銭以下となった。
明治36年の2月と11月の二度にわたって、東京府知事から東京市長へ、就学にかかる費用・経費の節減について通牒(つうちょう)が出された(15)。11月の通牒を例に見ると、従来「東京市立小学校」に、資産のある一部の児童を標準とする傾向が見られることを述べ、「市町村立尋常小学校ハ国民ノ義務教育ヲ施ス所」という観点から、注意すべき事項を挙げている。その内容は入学者や私立小学校からの転学者の受け入れと、保護者の負担の軽減に関することであり、例えば以下の通りである。「私立小学校ヨリ転学シ来ルモノヲ疎外スル等ノコトナカラシムルコト」「教授用品履物等ノ一定ヲ強フル等ノコトナカラシムルコト」「弁当ノ携帯ハ之ヲ任意ナラシメ、決シテ之ヲ強ヒサルコト」「習字用罫紙、筆入、羽箒等必シモ入用ナラサルモノハ成ルヘク購入セシメサルコト」「校長及教員等ニ於テ児童ノ保護者ヨリ寄附金等ヲ募集シ若ハ領収セサルコト」。
これら行政側の取り組みによって、私立小学校の児童が公立小学校に移動することとなり、公立小学校は少なくとも下層職人、商人などにとっても初等教育の場となった(16)。一方で、すでに述べた通り、特に「貧民」の子に向けて、市立区営の小学校と別に、市直営の「特殊小学校」を設置した。
就学率と、公立尋常小学校の児童数の割合の上昇の背景には以上のような行政の施策があった。