すでに述べた通り、就学率向上の背景には、文部省の方針とそれを受けた府、市、区の取り組みがあった。以下では、就学事務上の取り組みについて見たい。
明治32年(1899)、樺山(かばやま)資紀(すけのり)文部大臣は、就学率の増加を目指す方針と、その数値目標、方法を地方行政機関に示した。7月13日の第1回府県視学官会議で「学令児童の就学比例増加を勉めざる可からず。本大臣は明治四〇年を期し少くも百分の八五以上を就学せしむるの計画なり(17)」と、それに先立つ4月22日の地方長官会議で「就学督責を励行して努めて其普及を図らんには、市町村長をして常に学齢簿に注意せしめ、其加除訂正を怠らしむべからず。殊に学齢児童数の調査は最正確なるを要するに依り、各市町村役場吏員中就学に関する帳簿の担任者を定置せしめ之か整理を掌らしめ……(18)」と述べた。就学率85パーセントという目標を示すとともに、学齢児童の名簿である学齢簿について、「就学督責」を行う基礎であることも前提にしつつ、「整理」を行うという。
学齢簿の「整理」が必要な背景には、当時の戸籍・寄留制度の実態があった。児童が転入する際に寄留届を提出するものの転出する際には届け出ない者も多く、その場合には居住の実態のない児童が学齢簿に掲載されることとなる。特に都市部においては「奉公」として子どもが移動してくることも多かった。また、そもそも戸籍上の出生届を出さない例もあった。このようなことから、戸籍簿・寄留簿の正確性を前提とするのではなく、学齢簿自体としての「整理」を行うことが、学齢児童を把握して就学督励を行う上で必要であった。
学齢簿の「整理」と就学率の間には、さらに直接的な関係もある。学齢簿の「整理」は、統計上の学齢児童数すなわち就学率算出の除数(分母)を減らすことにもつながった。