まとめ

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子どもの尋常小学校での就学の状況を、明治30年代頃を中心に「就学」、「不就学」、統計上に表れない子どもの順に見た。明治30年代には、就学率と、公立尋常小学校の児童数の割合の大幅な上昇という変化を見ることができた。これは行政の施策の結果であるともいえるが、その裏面には、統計上「居所不明」とされて行政の就学統計から排除された子どもがあり、また、行政によって存在を把握されていない子どももいたと推測される。そして、このような状況の前提として、子どもの就学に家庭の影響や決定があることをとらえることができる。
就学率や公立尋常小学校の児童数の割合の上昇という変化は、当時の行政の視点で見れば、家庭や保護者のいかんにかかわらず公立小学校での就学すなわち「国民ノ義務教育」が普及したということである。その上で土方(ひじかた)苑子(そのこ)はこの変化を、「国民すべてを対象とする均質な教育空間(24)」への包摂に向けた過程ととらえている。
土方は、「実際には、多様性、不平等が存在するからこそ国民としての「均質性」の虚構によって結び合わせるということを主張していたはずである。(中略)一九〇〇年頃の東京市はまさにそういう状態だったのではないだろうか(25)」と言う。土方が言う「親の属する社会集団による棲(す)み分け」は、職業の違いや財産・収入の階層差とともに、対抗的な文化の関係、保護者の選択・決定(特定の選択を強いられることも含めて)など、それだけを見ても多面的な意味を持っている。さまざまな不平等や多様性と「幻想上の均質性」の関係を考えていく課題は、明治 期のみならず現代までを通じて対象とし得るだろう。
一方で、本章のはじめで述べたように、保護者や家庭、行政や国家を、子どもに関わる諸関係としてとらえる視点を、ここで強調したい。本章で見た状況は、子どもに関わる、保護者の責任・権限と、行政による就学普及の、矛盾が表れる様相である。


(1)  もちろん、児童が就学できるだけの学校を設置し設備を整え教師を雇うことやそのための財政措置も、就学普及のための取り組みといえる。
(2)  就学義務は、明治期に法令に定められて以来、国家のために臣民に課せられた義務と解されていたが、「日本国憲法」の下では子どもの「教育を受ける権利」を保障するためのものとされる。
(3)  学齢の期間は8年であり、明治33年「小学校令」では「児童満六歳ニ達シタル翌月ヨリ満十四歳ニ至ル八箇年」とされた。また、就学の始期は毎年の4月であり、それに達しない学齢児童は就学率の計算からは除かれた。
(4)  学齢期間は8年間だったが、尋常小学校の修業年限は4年でありその卒業を以て保護者の義務は終了した。
(5)  市長は、学齢児童を就学させるに足る尋常小学校の設置を義務づけられており、学校設立者と協議の上府知事の許可を受けて、私立尋常小学校を公立尋常小学校に代用することができた。代用小学校制度については『東京都教育史 通史編2』、1995年、第3編第1章第2節1に詳しい。港区域における、行政による公立小学校増設の取り組みや私立代用小学校の状況について『港区教育史』第2章第1節第1項が記述している。
(6)  「文部省示諭」p. 30(国立教育研究所第一研究部教育史料調査室『学事諮問会と文部省示諭』、1979年)
(7)  『港区教育史』第2章第1節第2項(1)、第3章第2節第2項(1)によった。この他に同書第2章第1節第3項(2)には私立の慈善的学校についての記述がある。
(8)  「特殊小学校」について『東京都教育史 通史編2』、1995年、第4編第1章第4節、『同 通史編3』、1996年、第5編第1章第2節3によった。『港区教育史』第4巻(通史編④)巻頭コラム「『特殊小学校』の廃止」も見てほしい。
(9)  東京府学事年報では明治33年度分までは「生徒」を用いているが、本章では通じて「児童」とする。
(10)  なお、学齢児童数と就学率の積と尋常小学校児童数は一致しない。学齢児童中の「就学」には尋常小学校をすでに卒業した者が含まれ、一方尋常小学校の児童には学齢児童でない者も含まれている。
(11)  なお、明治40年度以降代用小学校制度は廃止され、代用小学校は既定の代用期間のみ存続した。
(12)  土方苑子『東京の近代小学校』東京大学出版会、2002年、p. 155、189
(13)  同前、pp. 112―113、159、189
(14)  同前、pp. 112―120、156―159による。
(15)  「明治卅六年 文書類纂 学事」東京都公文書館所蔵625―D4―20(第42号文書、第33号文書)
(16)  前掲土方『東京の近代小学校』、p. 156、159
(17)  『教育時論』明治32年7月25日号。(三原芳一「日清戦後教育政策の構造―就学督励をめぐって―」『花園大学研究紀要』第12号、1981年、p. 272より重引)なお、日清戦後における、就学率上昇に向けた学齢簿の「整理」を含めた取り組みの全国的な状況については、三原芳一の研究が詳しい。上記の他、三原芳一「明治後半期の就学督励と学齢児童統計―関西三府県を素材に―」『地方教育史研究』第6号、1985年、同「日清戦後就学督励の諸相(Ⅰ)―就学督促の文脈―」『花園大学研究紀要』第15号、1984年、同「日清戦後就学督励の諸相(Ⅱ)―就学忌避と就学奨励―」『花園大学研究紀要』第18号、1987年。
(18)  文部省大臣官房総務課編『歴代文部大臣式辞集』、1969年、p. 112
(19)  「明治三十五年教育課文書 例規 全壹冊」東京都公文書館所蔵602―D5―14
(20)  村松茂助「郡市町村の教育に就て」内務省地方局『第二回第三回地方改良講演集 下』、1911年、p. 394
(21)  土方苑子は、「居所不明」による学齢簿からの抹消や、明治33年より前の統計上の学齢児童数が推計人口より過大であることなどに着目し、年報の数値の背後にある「実態」を考察している。(土方苑子「『文部省年報』就学率の再検討―学齢児童はどのくらいいたか―」『教育学研究』、第54巻第4号、1987年)
(22)  「大正十五年 学務兵事課 学事 市立学校」東京都公文書館所蔵307―C8―4
(23)  『芝区誌』、1938年、pp. 761―814に芝区における社会事業についての記述がある。なお、昭和10年の国勢調査で、水上生活者は601世帯2532人を数えたという。(同、p. 773)
(24)  前掲土方『東京の近代小学校』、p. 189
(25)  同前、p. 191