社会階層に従った身なり

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近世の人々は、それぞれの身分に従った身なりをしていたが、明治期に入ってもなお、それらの慣習や意識が残存しており、子どもたちにも親の属する社会集団の生活習慣や服装が反映していた。明治前期の初等教育は、そうした階層に対応して、公立、私立、貧民小学校などが重層的に存在し、公立小学校には名望家層の子弟が多く通ったといわれる(1)。桜川小学校の明治24年(1891)入学生は、当時の風潮を次のように語っている。
 公立の学校と言うとその体面を重ずる上から服装や学用品に金をかけて何でも華美にやるという風があったからです。つまり官尊民卑の風が非常に濃厚でありました為に、公立官立と言えば出来るだけ金をかけてその優越を誇る必要があったのでしょう。(中略)その頃公立の小学校に入学するような児は多くは高位高官の人や金持と言ったような階級の家庭の者が多数でありました。即ち将来官公吏のような俸給取りや学問で身を立てようと言う希望の子供が公立小学校に入学するのであって、商工業者の子弟等は大方私塾に通うという有様でありました。
(桜川小学校『桜川百年』)
鞆絵(ともえ)、赤坂、南山小学校などの公立小学校が描かれた、当時の双六を見ると、確かに児童の服装は大変整っている[図4―1]。一方、[図4―2]の南山小学校児童の絵の子どもは、家の庭で着流し姿で遊んでいる。登校時には衣服を着替えていたのであろう。学校に着ていく児童の服装によって、親の社会階層や権勢を示したことがうかがわれる。


[図4-1] 双六に描かれた明治前期の公立小学校児童

鞆絵小学校と赤坂小学校の児童は、どちらも大変整った服装で授業を受けている。
出典:『生徒勉強 東京小学校教授雙録』明治10年



[図4-2] 着流し姿で庭で遊ぶ子ども

出典:南山小学校児童作品『南山』第31号、明治44年