前出の「小学校生徒衣服改良の旨趣書」が、「遊戯体操」に適さない男児の服装の改良を唱えたように、体操授業は、女児の服装にも影響を与えた。大正2年(1913)に文部省訓令「学校体操教授要目」が公布されると、三河台小学校では、「児童の服装を改善し殊に女子の服装をして運動に適当なる様改良す」として、女子にも運動できる服装を求めている(三河台小学校「児童の体力養成」『港区教育史』第3章)。しかし、動きやすい洋服への切り替えまで求めることはせず、手持ちの和服を工夫して機能化する、負担の少ない方法が取られたようである。同校卒業生は、「女子の袴は運動のじゃまになるからと、袴のすそをひもでくくらせたなど、いかにも隔世の感を深くする話が伝わっています」と回想している(三河台小学校『麻布台』)。
袴だけでなく、長い袂(たもと)も、腕の動きを妨げるとして、「筒袖」と呼ばれる着物が推奨された。これも、手持ちの和服を運動に適した形に改良するものである。南山小学校では、「女児一般に筒袖の着用を奨励す」との記録がある(『南山小学校沿革史』明治35年)。また、麻布小学校では、「衣服は男女とも筒袖和服または洋服を用いしむべし」として、女性教員や男子にも筒袖を奨励した(麻布小学校『あざぶ小学』第1号、大正2年)。
こうした服装改良は、通学服だけに起こったものではなかった。先の南山小学校沿革史は、「国民の衣食住改良に対する感念(ママ)未だ幼稚なるにより、其効果捗々(はかばか)しからざるこそ遺憾なれ」と続く。通学服の改良は、国民の生活全般を改良すべきとする社会的潮流において起こったものだったのである。