バラバラな通学服

80 ~ 82 / 321ページ
洋服への転換が、皆一斉ではなく徐々に増える形で起こったことは、子どもの通学服の洋装化の特徴の一つである。というのも、もしも、中・高等教育機関のように学校制服が実施されていれば、洋装制服への一斉転換が起こっていたかもしれないからである。しかし、港区の公立小学校では、前節で見た筒袖・着袴(ちゃっこ)など、学校生活や教育内容に適した服装を推奨することはあっても、中・高等教育機関のように制服を定めることはなかった。青山師範学校附属小学校の標準服は、小学校としては全国的にも数少ない事例だったのである(6)。
公立小学校で制服が実施されなかったのは、増設により児童数が大きく増え、幅広い社会層が公立小学校に通うようになったことを背景としている。当時の洋装制服は、各自が洋服屋で仕立てねばならず、貧しい家庭には負担となって就学率を下げる恐れがあった。公立小学校は、家庭の経済格差に配慮せざるを得ず、多少の服装ルールを設けても、制服を定めることはなかったのである(7)。
そのため、子どもたちの通学服はバラバラだった。例えば、[口絵4]の竹芝小学校の卒業写真(昭和7年)の児童は、ジャケットやジャンパースカート、セーターなどさまざまな洋服を着ており、和服の児童もいる。同様に、昭和初期の公立小学校の写真には、種々の洋服に身を包む子どもたちを見ることができる。