しかし、公立小学校の写真をたどると、子どもたちの洋服が、まるで制服のようにそろっているものもあることに気づく。特に男子に顕著で、[図4―15]の三光(さんこう)小学校の卒業写真は、中・高等学校の詰襟制服のような上着を皆が着ており、制服のようである。ところが、よく見ると襟元などにばらつきがあることから、任意の私服だということがわかる。
男子ほど顕著ではないが、女子も、そろってセーラー服を着用した。セーラー服は、もとは海軍水兵の制服だが、欧米で男女児用通学服として用いられ、日本には、明治後期に子ども服として入ってきた。大正後期には、女学校の制服に採用され、セーラー服にプリーツスカートが憧れの制服スタイルとなる(カバー参照)。また、東京市小学校裁縫研究会も、女児の通学服としてセーラー服を推薦した(8)。[図4―16]の南海小学校の卒業写真の左側には、制服のようにセーラー服を着る女子児童が並んでいる。
任意にもかかわらず、児童の服装が画一化しているのはなぜだろうか。それまでも、小学校児童の通学服は、学生帽や袴など、中・高等学校の服装に影響を受けてきたことから、洋服転換する際にも、上級学校の制服をモデルにしたとも考えられる。しかし、洋服は、多くの家庭にとって知識も経験も乏しく、高価なものだったので、自分で縫製するにしても、洋服店で仕立てるにしても、容易に手を出せるものではなかったはずである。そうしたハードルを大幅に下げたのが、発達しつつあった既製服産業だった。大正末期頃から、子ども向けの詰襟やセーラー服などの既製学生服が大量生産され、廉価で流通するようになる。それらは、機能的かつ低所得層も購入できる価格帯だったため、広く普及したのである。この既製学生服は、日常生活で洋服を着られなかった低所得層の子どもたちには、洋服経験の始まりともなった。