以上、港区の小学校に残された史料群を手がかりに、明治から昭和初期までの小学校における子どもの服装を検討してきた。近代小学校が次第に確立し、子どもの生活と育ちにおける比重が増してくると、小学校の活動に適した衣服が考案され、児童にふさわしい服装をするよう求められるようになった。男子と女子の服装は異なるものとして扱われたが、学校活動に沿うという点では同じ方向を向いて展開した。そうして、学校での服装は、社会動向や国による規制、学校の方針などに大きく方向づけられて変化してきたのである。
また、ときに保護者や子ども自身が服装に影響を与えることもあった。児童の通学服が洋服へ転換してしばらく後、日中戦争の勃発で戦時体制が敷かれると、衣類も統制を受けるようになる。さらにアジア・太平洋戦争へ突入すると、男子は「肩から防空頭巾、防毒マスクを右左にかけ、帽子は学生帽から戦闘帽に変わって」(麻布小学校『麻布台』)、女子は、[図4―17]の写真のように、もんぺをはくようになった。まさに社会動向による服装である。しかし、同時期の[図4―18]の写真の女子児童は、とても戦時下とは思えない、きれいなワンピースを着て並んでいる。これは学童集団疎開へ出発する際に撮影されたものである。疎開で離れ離れになるわが子に、せめてきれいな衣服を着せてやりたいという親心が感じられる。このように、学校での服装は、さまざまな要素を絡めて着用され、形成されてきた。
現在の子どもたちの通学服は、こうした歴史的経緯を基底に持つものである。港区には、公立・私立の小学校があり、私服の学校と、標準服や制服を定めている学校とがある。一方、学校での服装は、性別表現の自由や子どもの権利、経済格差やそれらに伴ういじめなど、多岐にわたる問題に関わっており、どうあるべきかが問われている。それらの問題をより本質的に議論するために、これまで港区の学校が経験してきた服装の歴史をひもといて考えることは、一つの有用なアプローチといえるのではないだろうか。
注
(1)
本巻第3章および、土方苑子『東京の近代小学校』参照。三河台小学校の卒業生は、当時の風俗や考え方について「まだ士農工商の階級的な考えが根強く残っていました」と回顧している(「明治時代の思い出」『麻布台』p. 100)。
(2) 「旨趣書」は児童の服装が大人の服製を倣っていることを批判しているが、当時は、子どもと大人の服装があまり区別されず、いわゆる「子ども服」がはっきりしていなかった。そのため、学校での服装に関心が持たれ、学校生活に適合するよう衣服の形態を変化させていくことは、「子ども服」の成立と深く関わっている。
(3) 服装ではなく、教室の様式を変更するよう求める例もあった。麻布小学校は、板張りの教室で椅子に座って授業を受けることは、着物を着用した女子児童には礼儀作法上問題があり、また、冬には寒いので、畳敷きに正座という従来の教室様式に戻す許可を求めた(明治15年8月8日「小学女生徒摂生・修身椅子廃シ着坐伺」東京府知事へ麻布区学務委員伺)。これも、近代学校の教室様式と服装様式の調和を求める模索といえる。
(4) 男子標準服の制定については、東京府師範学校附属小学校『学校家庭通信』第7号(明治36年10月)で、女子標準服については、同第177号(大正8年4月)で、保護者に告知されている。また、女子の洋装標準服は、「改良服の先鞭(せんべん)をつけた女生徒の通学服」と題して、大正8年5月16日付の読売新聞で報じられている。
(5) 生活改善運動では、洋装化は児童服から進めるべきとされた。児童の通学服が洋装化の一端を牽引(けんいん)したのである。
(6) 港区に限らず、戦前の公立小学校で服装を一律の型に規定することはごくまれだった。
(7) 第1次大戦後の物価の高騰を受け、文部省は「一定の制服を着用させることは父兄の負担に影響するところが多い」との理由で、中学校以下の制服を廃止するよう通牒(つうちょう)を出している。国は、国民教育の普及にブレーキをかけないため、家庭経済を圧迫しないよう気を配っていた(文部省通牒 発普770号 大正8年10月27日)。
(8) 東京市小学校裁縫研究会編 1922 『時代の要求に適応せる児童服の新研究』白水社