明治5年(1872)の学制によって日本の小学校制度はスタートし、発足当初より2万校以上の小学校が設置された。しかし、校舎を新築できた学校は限られており、多くの小学校は寺院や住居などの既存の建物を使用する形で始まった。新設された校舎の外観としては、洋風の建物を意識したものが多く建てられた。コロニアル様式に見られるバルコニーを有するものもあり、擬洋風あるいは和洋折衷の校舎が造られた。
一方で、用地取得や校舎維持に負担が大きく、学校増設の余力はなかった。当時、学校建設費は多額の寄付に依存したため、校舎建設には困難が伴う状況が続いた。そうした財政的な問題もあり、「教室だか物置だか」といわれるような、教育環境・衛生環境として不十分な建物も多く、採光や通風の面で問題の多い校舎もあった。計画的な環境整備は困難であり、次第に増大する教室不足を解消するために、既存の建物に密接させて増築するなどの状況も見られた。芝小学校では、掘立小屋のような校舎であったため、衛生上の理由から子どもを退校させる親もいるほどであった(1)。
明治前期は増改築でしのいでいたが、明治中期から後期になると本格的な校舎建築が進むようになる。そのきっかけの一つとなったのが、明治24年の小学校設備準則であった。法的に定められた設備準則に沿って、港区域の学校建築も次第に改善されるようになり、明治26年の白金・飯倉(いいぐら)両小学校の新校舎は、この規則に沿って校舎が建設されたといわれる(2)。
明治28年に文部省から「学校建築図説明及設計大要」が出されると、校舎の規格化はさらに進んだ。そこで示された学校建築の基本方針は質素・衛生・堅牢の3点だった(3)。明治31年、御田(みた)小学校新校舎落成式の芝区長の演説では、堅牢・通風・採光に言及されており(4)、文部省の方針に沿った教育環境の改善意識が浸透していたことがわかる。
明治32年には小学校設備準則が改正され、講堂・物置・特別教室(裁縫・手工)が規定されて、施設・設備面での充実化が求められた。設備の充実化は校舎内のみならず、校庭の教具や運動器具などにも見られ、運動場としての多機能化が図られた。動植物の飼育・栽培のための設備も多く設けられるようになり、校舎外での自然観察学習などに利用されるようになった
(「運動場施設一覧平面図」「運動場の遊具の整備」(明治41年筓(こうがい)小学校)『港区教育史』第2章176~177ページを参照)。
学校教育の場としての教育環境という側面に加えて、この時期には社会教育施設の機能を併せ持つという側面も見られるようになった。戦前の図書館は小学校に付設されたものがあり、東京市では簡易図書館が小学校に併設された。港区域の公立図書館は、明治44年から翌年にかけて、旧3区にそれぞれ1館ずつ設置されたが(三田・麻布・赤坂)、いずれも小学校内に設置された。後述するように、大正~昭和戦前期には、小学校に社会教育の機能を持たせることで、地域の中心としての小学校という性格が生まれる。これは、現在の小学校に見られる施設複合化にも連なる視点といえるだろう。