〔(2) 大正~昭和戦後初期〕

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大正期前半は、第1章で触れたように、明治末から続く新設校の増設期であり、それらの校舎の新築工事が行われるとともに、2部授業解消のための既設校の増改築や、老朽化対応のための建て替えが盛んに行われた。一方で、大正期は校舎・教室の量的拡充のみならず、教育環境の整備への関心が高まった。例えば、麻布小学校では理科・手工教室の設置、児童図書室の完備、1クラスの収容児童数を50人以内にするとの方策が示された(5)。
またこの時期は、校舎構造にも大きな変化が見られ始めた。大正12年(1923)の関東大震災によって、大半が木造校舎であった東京市の小学校は、下町地域を中心に校舎が焼失した。そのため、震災復興事業の一環として、小学校の鉄筋コンクリート(RC)化が進められた。それらの校舎は「復興小学校」と呼ばれて、その後の学校建築のあり方に大きな影響を与えることになった。
なお、関東大震災で被災しなかった学校についても、木造校舎からRC校舎へ建て替える動きが広がったが、15年戦争の進行とともに次第に物資不足が深刻化していった結果、RC校舎への改築は停滞することになる。港区域で確認できるものとしては、昭和13年(1938)築の三光(さんこう)小学校が戦前期に建設されたRC校舎の最後である。
なお、木造からRCへ構造が変わったことにより、屋上のスペースが生まれ、体操場として利用されるとともに、学校園(学習用の庭園・教材園)や藤棚などが設置されて教育実践に有効活用された。学校によっては、屋上に日光浴室(サンルーム)も作られた。また、屋上に校内神社が作られた事例もあった。三光小学校ではRC校舎が竣工した昭和13年に、屋上に設置された三光神社の鎮座祭が挙行され、「戦争に勝ちますように」と毎日参拝が行われたと伝わっている(6)。教育勅語や御真影を保管した奉安庫・奉安殿とともに、戦前の学校教育における国家主義的性格を表している。
戦時下においては、小学校を外部利用に提供する例が次第に増えた。軍関係の施設として利用された他、罹災(りさい)者収容や区役所として使用されるなど、非常時における学校施設の多目的利用が多く見られた。昭和17年には本土初空襲を受け、学校防空が叫ばれるようになると、次第に戦局が子どもたちの学校生活にも影響を及ぼし始める。昭和19年に縁故疎開が奨励されるようになると、疎開児童と残留児童に分かれることとなり、通常の学校生活を送ることすら困難な環境になっていく。そして、昭和20年になるとさらに空襲が激しくなる。港区域に大きな被害をもたらしたのは、5月25日近辺の空襲だった。
空襲により焼失した多数の小学校をいかに復興するかが、戦後教育の喫緊の課題となるが、疎開や外地からの引き揚げによる流入人口への対応や、ベビーブームの到来による児童生徒数の増加への対応をも行う必要があった。それに加えて、戦後新学制によって発足した新制中学校は、独立校舎で実施するという方針が立てられたため、新制中学校の校舎建設も急務の課題となった。
戦後の校舎整備は、昭和22年の芝浦小学校の校舎再建から始まった。この時期に建設された校舎はすべて木造で、RC化を進めた戦前の動向から大きく後退することになった。このような戦後初期の応急的な学校建設はしばらくの間継続し、一段落するのは昭和30年代に入ってからであった。


[図5-3] 大正時代の校舎図面(南海小学校)

医療室、防火壁、校庭の樹木など環境面での改良が見られる。
出典:「東京市南海尋常小学校改築平面図」



[図5-4] 復興小学校(桜田小学校)

アール(曲面)の外壁にデザイン上の特徴がある。
出典:桜田小学校『創立五十年記念号』昭和5年1月



[図5-5] 屋上に建てられた校内神社(三光小学校)

屋上の校内神社はこの時期多くの学校に存在した。
出典:三光小学校『記念誌三光 創立70周年』昭和55年3月

関連資料:【通史編4巻】3章1節6項 (2)施設・設備の充実
関連資料:【通史編5巻】4章概節2項 鉄筋化のすすむ校舎
関連資料:【通史編5巻】4章1節3項 (1)鉄筋化計画の進行
関連資料:【通史編5巻】4章1節3項 (2)公立小学校新設
関連資料:【通史編5巻】4章1節5項 校舎増改築時の協力
関連資料:【通史編6巻】5章概節2項 学校の被害状況
関連資料:【通史編6巻】5章2節1項 焼失校の再建
関連資料:【文書】三光尋常小学校改築