高度経済成長期になると、学校建築を巡る課題が校舎の量的拡充から質的拡充へと転換した。戦後に応急的に建設された木造校舎をRC化する事業が昭和30年代初頭から始まり、昭和48年度(1973年度)には区内の小学校がすべてRC化した。また、戦災を免れた校舎や老朽化した校舎の改築も併せて進められた。
校舎の量的整備がひと段落すると、特別教室、体育館・プールなど設備面での充実化が図られた。昭和29年の学校図書館法によって図書室が整備され、同年の理科教育振興法により理科室の整備も行われた。昭和35年度には区内のすべての小学校に体育館が設置され、昭和42年度にはほぼすべての小学校にプールが設置された。こうして、現在学校建築としてイメージされる基本的な諸設備は、この時期におおむね出そろった。
昭和40年代以降は、「教育内容の現代化(7)」と呼ばれる教育改革の方針に沿った教育方法の多様化に対応するため、視聴覚機器、ティーチングマシン、LL教室、アナライザー室などの設備・機器の整備がなされ、施設の質的改善がなされるようになった。
教育活動を充実化させる方向での施設整備に対して、経済成長に伴う都市公害への対応という形での施設整備も進められた。具体的には、騒音に対する校舎の防音や冷房設備、大気汚染に対する空気清浄機の設置などである。また、昭和50年以降には校内緑化も推進され、生活環境としての学校建築の改善が進められていった。都市環境の変化は子どもの遊び場の減少にもつながった。そこで、子どもに遊び場を提供するために、昭和37年から、夏季休業中に小・中学校の校庭や講堂が開放されるようになった。学校開放は勤労青年の活動の場ともなり、開かれた学校づくりの試みが始まった。体育館は社会教育での利用が増えたため、昭和40年代以降の改築において、出入り口の増設やシャワー室や更衣室の設置など、学校施設の外部利用を想定した改良がなされた。
昭和50年代以降には、昭和40年代とは異なる、学習の個別化や協働学習といった新しい教育方法を実現するための環境改善も見られた。その中で、三光(さんこう)小学校における「壁のない教室」の実践は特に新しい試みで、「学び方がわかる子の育成」をテーマとした教育研究の環境づくりのために、「壁のない教室」である大学習室が作られた。これは日本における公立小学校初のオープンスペースと伝えられており、その理念は「児童中心・生活経験重視・学習主体・形式陶冶(とうや)尊重の教育思想に基づくもの」であった(8)。この実践以降、床面積の大きい多目的室が各学校で設置されるようになり、この傾向は現在においても続いている。
ここまで見てきたように、近代学校制度が導入された明治時代以降、社会状況の推移や教育思潮の変遷に伴って、子どもの学びと生活の場である学校建築は変化を遂げてきた。こうした歴史的変遷を眺める中で、港区域を含む東京の学校建築に大きな影響を及ぼした出来事が、関東大震災とアジア・太平洋戦争であった。そこで次節以降では、この二つの時期における学校建築の姿と、その教育環境・生活環境としての意味を見ていきたい。