震災復興事業の一環として建設された復興小学校(全117校)は、全焼した学校をベースに計画された。そのため、港区域の復興小学校は芝区のみで、東京市から区へ移管された竹芝小学校(旧芝浦小学校)を含めて9校が建設された。復興小学校の基本方針としては、耐震・耐火構造の校舎にすることに主眼があったが、それだけではなく、教育実践の改善―特に当時隆盛していた「新教育」と呼ばれる子ども主体の教育への対応や、地域の中心としての小学校、あるいは当時深刻化していた都市問題への対策など、多くの機能を持つものとして計画された(11)。
「新教育」とは、教師中心の教育を子ども中心に転換しようとする世界的な教育運動で、日本では大正期に隆盛したため「大正新教育」と呼ばれる。その特徴は、個別学習や協同学習を取り入れながら、実験・観察などの実物教授や生活経験を重視した体験学習、作業学習などを行い、能動的学習を実現しようとするものである。
新教育の思想は、主として私立小学校や師範学校附属小学校での実践に取り入れられたが、復興小学校を設計する上でも参照され、生活・教育環境として校舎の改革が試みられた。復興小学校の設計を統括した東京市の技師古茂田(こもだ)甲午郎(こうごろう)は、海外の新教育情報を積極的に吸収し、学校を「子供の王国」にしようと考えた(12)。子ども主体の多様な教育実践を実現するために、特別教室の充実化が図られ、復興小学校では理科・手工・図画・唱歌の各教室が設置された。また、校庭や屋上などに理科・図画教育などを行う学校園を設けた。
屋内体操場も全校で設置されたが、これは地域の中心として社会教育事業を行うための多目的施設としても想定されていた。大正期は普通選挙導入を背景として、成人に対する社会教育への関心が高まった時期であった。その中心施設として小学校が想定されたため、復興小学校においても、地域の学びの中心として小学校の校舎が考えられた。例えば、屋内体操場や特別教室などが地域の社会教育活動に開放され、あるいは一部の学校に市立図書館が付設されるなどの形で、その理念が具体化された。学校施設の地域利用を踏まえて、児童と外部利用者の動線を分けるために、昇降口が二つ設けられた。
復興小学校の教育機能は以上にとどまらない。当時一般家庭にはあまり普及していなかった電気・ガス・水道がすべての復興小学校に設けられたが、これは校内環境の改善のみならず、これら近代的設備が都市生活の教材として児童の学びとなり、さらには保護者や地域住民に対する啓蒙(けいもう)の効果をもたらすことが期待されたのだった。また、健康面にも注意が払われ、衛生室(保健室)が設けられるとともに、結核対策の一環として、虚弱体質を改善するためのサンルームや紫外線浴室が設置された学校もあった。
このように、未曽有の災害を経て建設された復興小学校は、単なる復旧にとどまらず、新しい教育動向への対応や、地域の中心としての小学校、あるいは災害や生活環境など多様な都市問題への対応を含みながら、震災後の社会建設の拠点として建造され、その後の学校建築へも多大な影響を与えた。しかし、こうした新しい動向も、復興事業が完了する頃に勃発した満州事変から始まる戦争の時代になって、次第に下火になっていった。