前節で見た学校建築のさまざまな改善は、戦争の勃発とともに停滞し、空襲によって校舎が破壊されるに至ると、学校建築の質的改善どころではなくなっていった。
戦争による校舎の被害状況としては、公立小学校では29校中10校が焼失した。幼稚園は中之町が大破、青山が全焼という被害状況だった。これらの中で、RC造だったために建物自体は残ったものの内部が焼失した学校(青南小学校)や、罹災者収容のために教室として使用するのが困難になった学校も多く見られた。
当時の児童の家庭状況は「ほとんど焼けトタンの掘立小屋程度のもの」で、「芋の子のように狭い所で寝起きする者も多かった」とされる。また、食糧事情が悪化したため、ほとんど食事らしい食事が取れない子どもも多く、体育の授業では空腹になるような運動を避けて、教師が見学を勧めるほどだった(13)。
29校あった小学校のうち、全焼した東町・飯倉(いいぐら)・三河台に加えて愛宕が閉校となり、25校体制で戦後教育がスタートした。しかし、疎開先から戻らない児童も多くいたため、学校再開は残留児童を集めて「寺子屋式」で行われた。戦時中の学童疎開に伴って生まれた空き教室は、兵舎や官庁事務所、避難所、廃材置き場などとして利用されたままで、戦後になり学校を再開する際には、復旧・整理に多くの労力を割かなければならなかった。被災者用の住居として利用されたものもあり、立ち退きまで時間がかかる例もあった。
校舎の焼失や教室の転用などによる教室不足に加え、疎開先からの引き揚げなどによる児童数の急増を受けて、罹災校の児童を周辺校に分散しつつ、2部授業が実施された。それでも児童を収容しきれず、いわゆる「すし詰め学級」の状態で授業が行われた。2部授業が解消されるのは昭和25年(1950)まで待たねばならなかった。
このように、罹災校はもとより、罹災校の児童を受け入れた学校も十分な環境が整わない状況で、限られた資源を分け合いながらの授業再開だった。罹災校の児童は、受け入れ校での間借り生活に肩身の狭い思いをし、登校を渋る子どももいた。そこで氷川小学校では、罹災した赤坂小学校の児童を混成して学級を編制した(14)。