〔(2) 6・3制と学校建築〕

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戦災後の学校教育を巡る困難な状況に対して、学校の再建は急務の課題であった。戦後初期における、港区の教育行政最大の課題は校舎整備であり、学校建築の課題は、普通教室の増築、戦災校舎の復旧、木造校舎のRC化、新制中学校の独立校舎建設と幅広く、困難な状況に立ち向かわざるを得なかった。
校舎の復興は、昭和22年(1947)の芝浦小学校を皮切りに実施された。復興第1号校舎となった芝浦小学校だが、その校舎は木造平屋で7教室という不十分なもので、雨漏りをするので傘を差しての授業、椅子は4人がけ、廃棄バスの利用、教室不足の分は青空教室といった厳しい環境であった(15)。
戦後に義務教育化した新制中学校は、学校創設と校舎建設の道のりが小学校以上に困難だった。港区の新制中学校はまず8校体制で発足したが、閉校となった愛宕小学校校舎を利用した愛宕中学校のみが独立校舎であった。全国的にも独立校舎で発足したのは15パーセントにすぎず、それも、戦前の国民学校高等科や青年学校などの校舎を転用したにすぎなかった(16)。独立校舎で開校を迎えられなかった大半の中学校は、小学校をはじめとする他校の教室を間借りしての船出となった。その中には、2校にまたがっての間借りや、途中で間借り先の学校が変更となる例もあった。
新制中学校の各校が独立校舎を得るまでに、早くて3年、遅いところは8~9年かかった学校もあり、戦後の中学生が「自分たちの学校」を得ることは容易でない状況があった。また、新築校舎といっても、教室、職員室、保健室などの最低限の施設であり、応急的な校舎だったため傷むのも早く、教育環境としては不十分なものだった。例えば、高松中学校の校舎では、強く歩くと床板が抜けた、頻繁に窓枠が壊れガラスが割れた、2階の音楽室で保護者会を開いたところ不気味な音とともに校舎が揺れだした、といった有様だった(17)。
このように、壊滅的な状況からスタートした戦後の学校建築は、戦前に蓄積し発展した理論を一度脇に置き、最低限の教育を提供するだけの環境を用意するという次元に退行してしまった。校舎の最低限の量的拡充にめどが立つまでには、第1節で述べたように10年以上の月日を要することとなった。


[図5-11] 新制中学校設置の経過(昭和22年~昭和30年代前半)

出典:『港区教育史』第5章他より作成

関連資料:【通史編6巻】5章概節3項 施設の復旧と充実への努力
関連資料:【通史編6巻】5章2節1項 焼失校の再建
関連資料:【通史編6巻】5章3節1項 港区新制中学校の発足
関連資料:【通史編6巻】5章3節1項 応急的な開校
関連資料:【図表及び統計】区立中学校増改築等の状況