この章では、港区域における学校給食のはじまりを明らかにしたい。まずは、給食以前の昼食を確認しよう。
[図6―1]は、明治末の三光(さんこう)小学校の昼食風景である。大勢の児童が長机に弁当箱と湯飲みを並べ、静かに食べている。手前には教員の姿もある。また、当時の校則から食事の様子を知ることもできる。南山小学校では、「午餐(ごさん)の時間は正午五分前より二十分間」で、「教師の合図により一斉に会釈して食事を始め」た。(南山小学校『校規』明治40年)。桜田小学校では、食事の前には手を洗い、当番の児童が白湯を配った(桜田小学校『校規』大正14年)。[図6―2]のように、赤坂小学校の校則には食器の配置まで細かく指示があり、教師が一緒に食事をして作法を教えた。「姿勢は安楽に保ち、極めて愉快に食事すべきこと」という規定からは、リラックスした楽しい昼食時間が想像される(赤坂小学校『校規』明治40年)。
また、次の回想からは、弁当ではなく、帰宅して昼食を取る児童もいたことがわかる。
小使さん(ママ)が柄のついた鐘を「チリン チリン」とならして、廊下を歩きながら時間を知らせていました。お弁当は学校で食べる人、家へ帰って食べる人とまちまちでしたね。私共は家が近いので家へ帰って食べました。雨が降るとお弁当が届いて、それは本当に楽しかったです。(桜川小学校『桜川百年』)
弁当の内容は、「アルミの箱に麦飯。おかずは、のりじきに、一銭五厘の鮭の切り身ぐらい」だったようだが、中には使用人に温かい弁当を届けてもらう児童もおり、皆にうらやましがられた(麻布小学校『麻布台』)。弁当は貧富の差が表れやすかったので、質素なものにするよう、学校が指示を出すこともあった(1)。
これらが、明治から大正期の公立小学校の昼食風景である。しかし現在は、事前に献立を組んで調理された「給食」を、そろって食べるのが一般的である。いったい、いつどのように「給食」へ切り替わったのだろうか。
結論を先取りすれば、「学校給食」は、大正期に萌芽が見られ、昭和初期に部分給食の試みがあり、戦後に完全給食へと至る。学校での「食」は、戦前から次第に現在の学校給食へと発展してきたのである。だが、港区域に残された史料をたどると、小学校における「食」の歩みは、単に「学校給食」が拡大してきただけではないことに気づく。学校という場においては、子どもや地域の「食」を支える取り組みがさまざまに行われ、「学校給食」はそこで芽吹き、形作られてきたのである。本章は、そうした視点に立ち、港区域の小学校における「食」の取り組みとの関係性の中で、「学校給食」がどのように始まったのかを明らかにしていく。
[図6-1] 学校給食以前の昼食風景
小学校の昼食は、弁当持参や自宅に戻って食べるスタイルだった。
出典:三光小学校『三光帖』明治45年3月
[図6-2] 明治40年の赤坂小学校の学校規則
食事作法の規則は食器の配置まで図解する詳細なものだった。配置例からは、弁当にパンを持参する児童もいたことがわかる。
出典:赤坂小学校『明治四十年九月改 校規』