学校を避難所に

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大正12年(1923)9月1日午前11時58分、関東一帯を激震が襲った。その後、東京では余震が続いて各所から火の手が上がり、下町を中心に3日間にわたる火災に見舞われた。後に関東大震災と呼ばれる大災害である。港区域の火災による焼失は、芝区で24パーセント、赤坂区で7パーセント、麻布区でほとんどなかったことから、比較的被害が軽かったといわれる(『新修港区史』第1編)。しかし、芝区で9校の公立小学校が焼失し、その就学児童数は8430人に上った。その日は2学期の始業式で児童は下校していたが、教職員は、御真影や重要書類を避難させたり、火災に対処したりと、身を挺(てい)して学校を守った。翌日から、すべての小学校で教育活動が停止された。
焼失を免れた小学校は、避難所となった。青南小学校も、「新校舎は殆んど破損なく旧校舎は瓦が落ち又は化粧壁が落ちた」程度の被害で、児童・教職員とも無事だったため、罹災(りさい)者の収容・救護に当てられた。
この大震災で、東京市域の住民250万人のうち、150万人が家を失い、市立小学校は、避難所として約3万人を収容し、炊き出しなどで25万食ほどを給食したといわれている(鈴木淳『関東大震災』)。避難所となった青南小学校は、赤坂区役所の委託で米や鮭の販売も行った。高輪、三光(さんこう)小学校も販売所となり、南海、聖坂小学校は配給品格納庫となった。学校は、食料供給の拠点となり、被災者や地域の食を支えたのである。その様子を、卒業生が次のように振り返っている。
 あとで学校は大丈夫かとぞくぞく見舞客がありました。秩父宮様もおみえになり、米とか衣料品をいただき、ここが配給所になりました。(中略)炊き出しをするのに、大きな釜を使いました。それに、私たちは子どもでしたから、ご飯の炊き方や水かげんがわからないものですから、おかゆができてしまいまして困りましたよ。(青南小学校『せいなん』32号)
被災者は、地震発生直後は傷の手当よりも飲食物を強く欲することもあったという(鈴木、前掲書)。教師や児童らの炊き出しによる給食が、彼らをどれほど力づけたか想像に難くない。


[図6-4] 鮭や米を並べて販売する青南小学校

焼失を免れた公立小学校は、避難所や食料供給の拠点となり、被災者の食を支えた。
出典:青南小学校『青南百歳 開校百周年記念誌』平成19年3月

関連資料:【通史編4巻】3章2節1項 罹災者の収容