震災被害の救援として全国で義援金も集められ、大阪毎日新聞社と大阪朝日新聞社も、東京市社会局に64万円余りを寄付している。この義援金の使途を巡る協議で、「此金は学校給食に用うれば最効果的である」という佐伯の意見が採用され、「中央に調理所を設け合理的献立に従って食物の調理を行い此処より各学校に配給」する、現在でいうセンター方式の学校給食が行われることになった。
大正12年12月、罹災した東京市直営小学校で栄養食の給食が開始され、米飯の主食と副食で構成された給食を、栄養研究所の講習受講者が調理した。栄養研究所技師の原徹一は、5カ月後の児童の栄養状態を調査し、その改善ぶりを「見事なる成績」と称賛した。港区域の直営小学校について見ると、罹災したために給食が行われた芝浦小学校(後の竹芝小学校の前身)では、栄養不良の児童が21パーセントから4パーセントに激減した。逆に、罹災しなかったため「家庭弁当」のままだった絶江(ぜっこう)小学校では、栄養不良の児童が3パーセントから22パーセントに増加してしまった(原『学校給食と献立の栄養学』)。震災救援の給食ではあったが、原の調査により、学校給食が児童の栄養状態を向上させることを証明し、その有用性をアピールすることになったのである。
こうした成果を受け、芝浦小学校校長は、半年の予定だった学校給食を継続するよう、請願書を提出している。そこには、学校給食の意義として、「教師と児童と同一物質を同一人の手によって料理せられたるものを一つ心になって味わえることは真の暖き共鳴である」「保健成績の良好なるにつれ、出席歩合増加す」「食物に関する知識を授け得られる」「栄養充分なるにより、精神上一層の向上をなせること」「買い食いなどによる間食の不摂生なきに至れること」「食わず嫌いを矯正せること」が挙げられた。現在の食育と重なるものである。
東京市直営小学校での給食の効果が新聞で紹介されると、多くの小学校が給食を希望した。そこで佐伯は、「児童の保健並に国民体力の向上」を目的とする日本栄養協会を結成し、貧困児童が多い東京市直営小学校などへは無償で、希望する学校へは有償で給食を供給した。学校給食は全国に広がり、文部省によると、昭和2年(1927)に93校、昭和4年に204校へと拡大した。港区域では、芝浦・絶江小学校の林間学校や氷川小学校の養護学級にも、栄養食が支給された。
このように関東大震災は学校給食開始のきっかけとなったが、冷害などの災害もまた、給食を推し進めた。昭和恐慌が深刻化していた昭和6年、東北・北陸地方に大凶作が起こる。人々は飢えに苦しみ、すでに第1次世界大戦後の経済不況で問題化していた欠食児童が、全国で20万人余りに激増したといわれる。そこで、佐伯は、「学校給食に関する意見書」(昭和7年)を文部省に提出し、学校給食で欠食児童に対処するよう建言した。同年、文部省は訓令第18号「学校給食臨時施設方法」を発令し、政府は、学校給食の国庫補助に踏み切ることになった。