就学奨励としての給食

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先述したように、明治期に見られた学校給食は、私設社会事業団体などが貧困家庭の児童を対象に行ったもので、児童の空腹を満たすことに主眼が置かれていた。同時に、学校へ行けば子どもが飢えをしのげるという理由で、親が子の就学を容認することもあり、学校給食による就学促進も期待された。昭和3年には、貧困児童に学用品や給食を支給する「学齢児童就学奨励規定」の訓令が文部省から出される。東京府でも、昭和6年以降、就学奨励費のうちで給食費が最大の支出となり、就学促進の柱となっていった。翌昭和7年に「学校給食臨時施設方法」が発令されると、東京府は学校給食委員会を設置し、貧困家庭児童にパンや米食の給食を支給して就学を援助した。白金小学校には、そうした就学奨励の記録が残されている。
 家庭貧困なるため保護を要する児童約五十名あり。市区の定められたる経費により、夫々(それぞれ)教科書、学用品、被服等必要に応じて給与せり。其の中、貧困の程度甚しき者に対して昼食を給す。前年度はパンのみを与えたれど、本年度は米食を交へたるため、児童も之を喜び幾分栄養を増したるやに感ず。本校は是等要保護児童と一般児童との環境に相当の隔りを見るため給与に際し訓育上考慮を要する所あり。
(原文は片仮名、白金小学校『学事年報報告書綴』)
ここでまず注目されるのは、児童が「栄養を増した」かどうかを観察している点である。貧困児童への給食が、空腹を満たすだけでなく、栄養状態を改善することも期待されていたことを示している。これは「学校給食臨時施設方法」が「栄養は発育の基礎にして活動の源泉」としたことに通じるものである。
関連資料:【通史編5巻】4章1節4項 生活困窮家庭への対応