欠食児童問題が深刻化するとともに、昭和2年(1927)から7年にかけて徴兵検査不合格者の割合が3割を超えるなど、国民の体位低下が覆い難い事実となると、学校現場では、児童の身体に強い関心が向けられるようになる。それは、例えば、桜川小学校校長の「国民の体格如何が国家の消長に重大なる関係があると考える時、第二の国民たる現在桜川校の児童の体格如何は更に優秀なる国民体位発展への根底となる大切な時期であるは言う迄もない」(桜川小学校『育幼』第12号)という発言にも表れている。児童は「第二の国民」として、その体格を向上させねばならなかったのである。
一方で食料事情は急速に悪化し、日中戦争が長期化の様相を見せ始めた昭和15年からは、砂糖や米などの食料品が切符配給制となった。しかし、発育期の児童には給食を実施すべきとして、同年、「小学校児童の栄養を改善し体位の向上」を図り「栄養給食の実施を奨励する」ことを目的に掲げる「学校給食奨励規定」が制定される。不安定な状況下、港区域の公立小学校も、次々と給食を開始した(「学校給食の開始」『港区教育史』第4章参照)。