みそ汁給食の開始

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それらを伝える史料が各校に残されている。[図6―6]は、三光(さんこう)小学校のみそ汁給食開始を保護者に知らせる書面である。みそ汁給食とは、みそ汁のみが出され、それ以外は家庭から弁当を持参する部分給食だが、「栄養味噌汁」で体位向上を図ると述べられている。[図6―7]は、白金小学校のみそ汁給食開始時の写真で、机を寄せ、向かい合って食べる児童は楽しそうに見える。しかし、給食内容には不満も出ていたようで、鞆絵(ともえ)小学校の卒業生は「豆カス(大豆の油をしぼったカス)の中にお米が少しはいっているひどい物、おかずは無し、すきとおった味噌汁一杯」だったと述懐している(『PTA会誌 ともえ』14号)。また、現在の赤坂小学校の廊下には、当時の給食風景を描いた絵画が飾られている。セーラー服にモンペをはく服装や、上級生が下級生に給仕する習慣など、戦時中の学校の衣食を鮮やかに伝えている[口絵6]。
昭和19年4月、政府は「決戦非常措置要綱に依る大都市国民学校児童学校給食に関する件」の次官通牒(つうちょう)を発し、六大都市の児童に米とみその特別配給を決定する。「米7勺(しゃく)、みそ4匁(もんめ)、野菜5匁、塩2匁、魚粉1校平均450袋、燃料薪」が配給され、1食10銭の有償給食となった。それを受け、麻布小学校も主食と副食の完全給食を開始する。給食作りを担ったのは、母親たちだった。
 十九年六月 戦況、食糧事情共に日毎に悪化し、発育期にある学童の体位をうれいて学校給食が始められた。一人七勺の主食に味噌汁を主とした副食、これを児童に如何においしく与えるかは、お手伝いの母親の苦心したところである。塩むすびの時もあれば、鮭かんのまぜご飯の時もあった。(麻布小学校『麻布台』)
しかし、食料はますます逼迫(ひっぱく)し、白金小学校では完全給食からわずか2カ月で、パンのみの部分給食に縮小されてしまう。子どもたちは、食料増産のため、畑仕事などにも従事した。9月に学童疎開が始まると、六大都市の給食は中止され、代わりに疎開児童の食料確保や配給が喫緊の課題となっていった。


[図6-6] 三光小学校の「栄養味噌汁」開始のお知らせ
港区立郷土歴史館所蔵



[図6-7] みそ汁給食を食べる白金小学校児童
白金小学校所蔵