疎開先での食料も次第に欠乏し、子どもたちは空腹を抱えて過ごした。疎開の思い出は、食に関するものが非常に多い。「夢に出てくる場面は、必ず茶碗山盛りのご飯をたべているところばかり」(三河台小学校『麻布台』)というように、寝ても覚めても食べ物が頭に浮かんだのであろう[図6―11]。楽しみは保護者の訪問や小包で送られてくるわずかなおやつだった。白金小学校の児童は、母親に宛てたはがきに「ビスケットが待ち遠しくてたまりません」と書いた。そんな子どもたちのために、保護者はできる限り食料を送った。しかし、それがもとで子ども同士のトラブルが頻発し、食料の送付を禁止する学校もあった。
[図6-10] 疎開地で薪を運ぶ児童
疎開生活は一般的に貧しく、児童も、自分たちの食と生活のために薪運びなどをして働いた。
筓小学校所蔵パネル
[図6-11] 疎開地で児童が描いた絵
「おばさんにごちそうします」と題された絵には、食事メニューがびっしりと描かれている。空腹を抱えた疎開児童は、湯気の立つごちそうの数々を夢想したのだろう。
出典:桜田小学校『昭和十九・二十年度 学童集団疎開の記録』