子どもたちの食と生命を脅かした戦争はようやく終わりを告げたが、その後も厳しい食料難が続き、児童の栄養状態はさらに悪化した。そのため学校衛生が見直され、改めて学校給食の重要性が認識されるようになる。給食再開には食料の調達が必須であったが、ララ(LARA=アジア救済連盟)の援助や占領軍からの食料供出により、実現することができた。港区域も素早く対応し、昭和21年(1946)12月に白金・氷川・檜町(ひのきちょう)小学校でミルク給食が始まる。翌月には、11校でミルクやみそ汁の部分給食がスタートし、児童の栄養不足を補った。その後、昭和25年には、パン、ミルク、副食(おかず)の3種で構成される完全給食が始まった[図6―12]。
学校給食再開に当たって出された通達には、全校児童を対象にすること、貧困児童を除いて有償とすること、摂取栄養量を明示すること、教育効果を図ること、保護者の協力を求めるなどの方針が示された。一見、新しいことが並んでいるようだが、そうではない。全員制給食で貧困児童が負い目を感じずに済むことや、栄養給食による体位向上、給食は教育的であるべきなど、戦前に学校給食が試行される中で主張されてきたことだった。
多くの小学校では、戦後に発足したPTAに給食部が設けられ、給食作りの力となった[図6―13]。昭和24年の青南小学校PTA給食部の保護者は次のように述べ、児童の母親たちに手伝いを要請している。