明治期の小学校教育は、明治後期の教育勅語、教科書国定化、ヘルバルト主義教授法の流行という主に三つの契機によって教育制度と教育方法の枠組みを整えていった。大正新教育が批判の対象とした明治期の教育を形作ったこれらの契機は、どのような意味を持つのだろうか。
教育勅語は、明治23年(1890)に、教育に関する天皇の考えを述べた言葉として渙発(かんぱつ)された。その中で、まず国民は天皇の「臣民」とされ、臣民が守るべき徳目が示された。徳目は「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」など儒教主義的な内容と、「進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ、常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」など近代立憲国家にふさわしい内容とが並列されていた。そして最終的には、これらの徳目を身につけた上で「天壌無窮(テンジョウムキュウ)ノ皇運ヲ扶翼(フヨク)」すること、つまり、無限に続く天皇家の運命を助けることが求められた。以後、日本の教育は教育勅語に依拠して、天皇の臣民にふさわしい教育内容を身につけるべきものとされていく。
教育勅語に依拠した教育内容は、実際には教科書を通じて子どもたちに伝えられた。明治36年、小学校の教科書は検定制から国定制となり、授業では文部省が編さんした教科書を使用しなければならないことになった。結果として、学校で扱う教育内容は直接的に国が統制することになり、教師は何を教えるかについて、自ら考案する自由を失った。
教育勅語と教科書国定化によって、教育内容についての自由が失われていくのと同じ頃、「五段教授法」あるいは「五段階教授法」と呼ばれる授業方法が全国的に普及した。この「五段教授法」は、明治20年に帝国大学に招聘(しょうへい)されたドイツ人ハウスクネヒトによってもたらされた、ヘルバルト主義教授法を下敷きにしていた。具体的には、教える内容を予示する「予備」、教える内容を子どもに示し伝える「提示」、すでに知っている内容と新しく知った内容を関係づけさせる「比較」、振り返りまとめさせる「総括」、教わった内容を使う「応用」の五段階で構成される。そして、この段階に従えば、授業内で子どもたちに効率よく知識を教授できるとされた。
明治30年代には、「五段教授法」に即して各教科の教授法が定型化し、さらに五段階が三段階に簡略化されつつ全国的に普及した(1)。教師たちは扱いやすい授業方法のマニュアルを手にしたわけだが、他方で授業方法を創意工夫する機会を逃したことにもなる。
このように、明治期の小学校教育は、天皇制のもとでの臣民育成を主眼として、教育内容が国家的統制の下に置かれた。さらに、教育方法は効率的な知識伝達を目的として定式化していく経過をたどった。教育内容も教育方法も画一的で創意工夫の余地がなく、しかも子どもたちに一方的に知識を伝達する教育は、その後、批判の対象となる。同時に、世界的には新教育の思想や実践が登場し、日本の教育にも影響を与えた。