前節で見たような明治期の教育は、明治末期から大正期にかけて「旧教育」として批判されるようになった。「新教育」が新たに掲げた理念を確認する前に、まずは、子どもたちの絵や作文から、新教育と旧教育の具体的な違いを確認してみたい。
[図7―1][図7―2]は、明治期と大正期、それぞれの時期の小学生が描いた絵である。絵の違いはどんなところに見られるだろうか。一見して明治期の小学生の絵は「上手」に見える。大正期の絵に比べて、輪郭・立体感がよりはっきりして整って見える。大正期の絵ももちろん上手に描けている。ただ、明治期の絵と比べた場合、例えば、花瓶の絵は立体としてうまく描けているが、明治期ほど線が整っているわけではなく、「手描き」の質感がある。明治期に比べて、大正期の小学生は絵がうまく描けなくなったのか。逆に言えば、明治期の子どもは、なぜこんなにも大人びた絵を描くことができたのか。
実は、明治期の子どもたちは手本を見ながら絵を描いていたのである。種明かしをしてしまうと単純なことだが、明治期の子どもにとって、手本を見ながら絵を描くことは、「臨画(りんが)」という正式な図画の学習方法だった。だが、これから見ていく大正新教育の時代、子どもたちは手本通りに絵を描くのではなく、自分の見たものを、自分なりの方法で描いてみるべきだと考えられるようになった。子どもたちは「子どもらしく」絵を描くべきであって、大人と同じような絵を描くことが大切なのではない、ということである。
子どもが書く文章についても見てみよう。[図7―3]は、筓(こうがい)小学校の学校雑誌に掲載された6年生の女子の「退学したる友に送る文」と題した作文である。
現代の私たちが日常的に使っている言い回しとは異なり、「御別れ致し候」「実をむすべる候と相成候」など、いわゆる「候文(そうろうぶん)」で書かれている。手紙を模した文章で、「御許様」という、女性が手紙で相手を呼ぶ際に使う言葉が書き出しに使われている。退学した友達を気遣い、さぞつらいであろうこと、しかしフランクリンは学校を退学しても寸暇を惜しんで書物を読み、立派な学者になった、あなたも勉強してフランクリンに劣らない人になってほしい、という内容である。学校雑誌に取り上げられている事実から、これは当時の模範的な文章であり、子どもたちは大人が使うような言葉遣いで手紙が書けることが評価されたことがわかる。
ここまで見てきたように、いわゆる旧教育の時代の子どもたちは、大人の手本に沿って、少しでも手本に近づけることが彼ら、彼女らの成長だと考えられていた。それに対して新教育の時代の子どもたちには、彼ら、彼女らの年代に沿った「子どもらしさ」が求められた。