〔(2) 「新教育」が目指したもの〕

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では、子どもに「子どもらしさ」が求められた「新教育」とは、どのような考え方を基礎にしていたのだろうか。一般に新教育とは、子どもたちに画一的な教育内容を注入したり、暗記させたりする教育方法を批判し、子どもの個性や自発性の尊重を主張する教育のことを指す。
教育の目的は「子どもが大人と同じことができるようになること」ではなく、たとえ大人と同じようにできないことがあったとしても、「子ども期には固有の意義があり、大人はその意義を最大限尊重する」ことが重要だとされた。そのため、子どもの自発性をできる限り妨げない方法で教育を行おうとした。
同時に、子どもの生活全体を教育の対象として捉え、さまざまな側面から子どもの成長を支援しようとした。つまり、子どもの側から見れば、子どもの生活や経験にも大人とは異なる固有の意味があり、子どもたちは子どもたちなりの経験を通して学習していくと考えられたのである。
新教育が学校教育に影響を与えた大正期は、「大正デモクラシー」といわれる、自由主義思想の広まりとともに市民の権利意識が高まりを見せた時代だった。実際の学校教育は教育勅語や国定教科書によって制度的に強い制約を受け、自由主義的な思想とは相いれない状況にあった。「国家主義的な学校教育と、デモクラシー・市民的権利との妥協点」になったのが、日本では大正新教育だった(2)。
新教育は世界的な動向でもあった。1900年、スウェーデンの教育家エレン・ケイは『児童の世紀』を著し、当時の教育を痛烈に批判した。またアメリカの教育学者ジョン・デューイは、従来の教育を「旧教育」とした上で、「新教育」は「コペルニクスによって天体の中心が、地球から太陽に移されたときのそれに匹敵するほどの変革であり革命である(3)」と、天動説から地動説への転換を例にして、教育の中心を子どもたち自身に移すべきことを主張した。
エレン・ケイやジョン・デューイに代表される新教育の考え方はその後、世界的に広まり、各国で教育改造の運動を引き起こした。日本では私立学校や師範学校附属学校を中心に全国に広まる。さらに当時の東京市では、市の教育行政全体が新教育に積極的であり、一般の公立小学校を含めて新教育の考え方が実践に移されていた。とはいえ『港区教育史』第3章には「港区地域の公立小学校では、新教育運動を直接学校経営に採り入れた学校はなかった。しかし、(中略)児童中心の考えを生かした教育活動を一部とり入れた学校もある」と述べられている(4)。そこで次に、白金小学校を例に、港区域の小学校に新教育がどのような影響を与えたのかを見ていきたい。
関連資料:【通史編4巻】3章1節2項 小学校の教育方針
関連資料:【通史編4巻】3章1節2項 教授の方針
関連資料:【通史編4巻】3章1節1項 新しい教育の動向
関連資料:【くらしと教育編】11章2節 桜田小学校の実践の意味