白金小学校には明治30年代の学校日誌が残されている。新教育の影響を受ける前のこの時期の学校日誌は、教員の出張、欠勤など、端的に言えば事務的な記録文書だった。そして、子どもについての記述はほとんどない。例えば、明治33年(1900)の日誌では児童の入学・編入があったこと、試験のことで保護者が相談に来たこと、児童の身長検査を行ったことなどしか書かれていない。明治34年1月には1・2年生の自宅が火事に遭った。本人に別条はなかったが、学校は事務員を見舞いに行かせている。
明治38年になると、「遠足運動会」と称する遠足に児童が出かけたことが記されるようになる。その他、夏休み前には「なつやすみのこころえを配布」し、冬休み前には「休業中ノ心得ヲ訓示シ通告簿ヲ交付」している。この頃から学校は、子どもたちの休み中の暮らしに関心を払い始めていた。
明治43年8月、校長が交代する。このとき就任した駒木根(こまぎね)重次(じゅうじ)校長は、大正10年(1921)4月に転任するまで、約11年にわたって勤務した。新しく転任してきた校長のもとで、学校日誌の記述には具体的な子どもの名前が記録されるようになる。例えば、区の運動会で優秀な成績を収めた子どもの名前などである。