大正11年4月、駒木根校長は校内での事故のため更迭され、本所区三笠尋常小学校の牧口(まきぐち)常三郎(つねさぶろう)校(6)長が新しい校長に就任した。牧口校長のもとで、白金小学校は教育方針を大きく変化させる。
新たな教育方針は、駒木根校長時代から発行されている『校報』に端的に現れている。[図7―6]のうち、下の『しろかね』というタイトルの入ったものが、牧口校長が最初に編集に携わった第5号である。
前校長時代との違いは一目瞭然で、まず表紙は教員が考案した図案から、子どもたちに募集した表紙絵に変わった。タイトルも『校報』が『しろかね』になった。内容は子どもの作文である綴方(つづりかた)が最初に置かれ、しかも多くの割合を占めていた。教員が寄せた文章も、「あゝ半紙八枚半」「おやつ」「エミールに聞く」「気合術について」など、エッセイ調の軽い文章だった。教員の動向は新任・異動・退職に限られている。
「編輯(へんしゅう)だより」と題された編集後記では、タイトル変更と表紙絵について次のように述べられている。「『白金小学校々報』といふ名を改めて『しろかね』としました。たゞ少しでも子供らしくしたい感じよくしたいとの希望からきたにすぎないのです」「表紙図案は全校児童から懸賞でつのつたのです。応募数は五十余ありました。が、子供らしいのがなかつたから、少し他の雑誌のに似て居つたけれど、藤田さんのを採用しました」
「子供らしく」「感じよくしたい」タイトル、子どもによる表紙絵、子どもの綴方中心の記事と、校報の変化は、学校の主役が子どもであることの宣言だと読み取ってもよい。