まとめ

151 ~ 152 / 321ページ
昭和期に入ると、学校教育には戦争の影響が及び、学校雑誌に掲載された子どもたちの作品も戦争に関連したものが多くなっていった。昭和12年(1937)の日中戦争を契機として、学校は完全に国家意識の教育機関になっていく。大正後半に子どもたちに与えられた学校の主役の座は、今度は国家に取って代わられた。子ども期を尊重する教育内容と教育方法の革新は、その後、戦後新教育の登場を待たなければならなかった。
子ども期それ自体を、価値あるものとして尊重する考え方においては、経済的・文化的な背景も重要な要素であるといえる。大人と一緒にすぐに働かなくてもよいだけの経済的余裕や、学校に価値を認めて、そこに通うことが当然だという考え方の双方が整って初めて、新教育は人々に受け入れられる下地を持つ。白金小学校の校報に掲載された子どもの作文を読むと、家にはお手伝いさんがいたり、貧しい子どもに物を買ってあげるだけの小遣いをもらっていたりと、経済的に余裕のある家庭が多かったことがわかる。子ども期を尊重する教育に必要な要素は何か、私たちに考えさせる事例であるといえる。


(1)  定型化した教授法は、「教育ジャーナリズムや教員養成、検定などの諸制度や、各種講習会」、さらに各地の授業法研究会を通じて地方にまで普及した(橋本美保・田中智志編著『大正新教育の思想―生命の躍動』東信堂、2015年)。
(2)  橋本・田中前掲書
(3)  ジョン・デューイ著・市村尚久訳 1998 『学校と社会・子どもとカリキュラム』講談社学術文庫
(4)  『港区教育史』第3章(通史編④)第1節第1項(1)p. 33を参照。
(5)  『港区教育史』第3章(通史編④)第1節第4項では、大正7年の白金小学校の記録が扱われている。
(6)  1871~1944年。小学校教員を務めたのち、創価教育学会を設立したことで知られる。