はじめに

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幼児教育は人格形成の土台を養う大事な時期で、どのような環境でどう過ごしたのかが人の成長に大きな影響を与える。その時期のことを淡い記憶として覚えている人も多いかもしれない。幼児教育機関で過ごした時間は、子どもにとって日常そのものである。しかし、幼児期の様子、幼稚園の日々の様子を克明に記録したものは実は多くはない。『港区教育史』本編を見ても(第1章第5節、第2章第4節など)、幼児教育に関しては制度的な歴史記述が中心で、園の日々の様子については詳しくは書かれていない。
港区域内幼稚園の歴史については、明治16年(1883)に共立幼稚園第二分園(赤坂区氷川町)、同17年に芝麻布共立幼稚園(芝公園)、同20年に榎坂幼稚園(赤坂区溜池榎坂町)と私立が先行して作られた。公立では明治23年の赤坂尋常高等小学校附属幼稚園が最初である。しかし、これら歴史の古い幼稚園の様子を知る史料は極めて少ない。一方、今回「くらしと教育編」を編さんするため各校各園の史料調査を行い、旧麻布区にあった幼稚園から、いくつかの新しい史料、特にアジア・太平洋戦争の頃の幼稚園と子どもたちの様子を知るための貴重な史料が見つかった。本章で取り上げる麻布区の二つの幼稚園とは、一つは公立の南山幼稚園(昭和9年創設)であり、もう一つは私立の東洋英和幼稚園(大正3年創設)である。南山幼稚園から東洋英和幼稚園までは850メートルほど、歩いて10分余りと近い。
南山幼稚園は創設当初の昭和9年(1934)から貴重な園日誌を残している[図8―1]。そこには日々の子どもたちの様子、幼稚園での出来事などが記録されている。昭和9年は第二次世界大戦直前の頃であり、幼稚園も社会背景から影響を受けていた様子が見えてくる。また、同地区にある東洋英和幼稚園にも同時期の園日誌が残っており、同じ地域にある幼稚園児の実態を比較しながら明らかにできる。両園は近くにありながら、私立と公立という違いがあり、教育方針にも違いが見られた。一方、戦時体制下において、戦争協力という時代の要請に応対しなければならなかった。そこで本章では、両幼稚園の園日誌より、戦中から戦後にかけての園児および幼稚園の様子を明らかにしていく。
なお、本章で扱う戦前期の東洋英和幼稚園は、正式には東洋英和女学校附属幼稚園であり、正式名称が東洋英和幼稚園となるのは昭和22年4月のことであるが、戦前戦後の歴史的経緯を追う意味で、本章では戦前期の記述部分においても東洋英和幼稚園と呼ぶことにする。


[図8-1] 南山幼稚園園日誌(昭和9年度)

開園以来の園日誌が残っているのは珍しい。
南山幼稚園所蔵