軍や戦時体制に関わる動き

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軍や戦時体制に関わる動きも頻繁に見られた。
昭和12年5月25日の記録では、「海軍記念日の御話をなし、軍艦マーチに合はせて行進し、保育室に入る」と書かれている。軍艦や海軍の話題が身近にあったことがよくわかる。
昭和12年9月になると防空演習が繰り返し行われている。11日に「十時より防空演習(中略)警報解除後運動場にて諸注意有り」、13日も「八時半より演習開始、校外避難錬」、さらに翌14日「十時より正式防空練習をなす。空襲―毒ガス―焼夷弾―火災―校外避難」と、かなり具体的で本格的な訓練を連日実施していた。
同年9月21日には、出征した職員や中国へ出兵している兵隊のために慰問袋を作る話をし、「慰問品の絵や手技製作」(22日)、25日には「全園児各保育室で皇軍慰問袋製作、各々心をこめた数々。一袋二円程度四袋。東洋英和保姆科生太田氏参観」と書かれてある。
昭和13年7日7日には、「日支事変一周年記念日にて小学校講堂で麻布区戦死者慰霊祭及戦捷祈願祭が挙行され、保育室を使用され、九時ラヂオ体操後記念日の御話をして保育室に入り十時御帰りにす」という記録がある。このように、幼稚園における日常的な場面で神社参拝や兵隊慰問といったことが取り入れられ、園児たちにとって戦争に関する話題が身近な話題として定着していったのだった。
その2日後の9日の記録はとても興味深い。
   午前九時より有栖川宮公園に出掛ける。十一時までに帰園の予定で歩いたが皆々元気に歩く。男児の兵隊ゴッコをしたい子供は鉄砲を持って兵隊さんになって出掛けた。まこと広い所で思ふ存分遊ぶかと思の外、皆鉄砲はお預けして砂場、ブランコ、お滑と遊ぶ。
この記録からは、子どもたちにとって兵隊の存在が身近だったことがよくわかる[図8―4]。一方で、子どもは公園で兵隊さんゴッコをするかと思いきや、砂場やブランコ、すべり台などの遊びに夢中になったという点、子どもの素直な姿が表れている。子どもにとって兵隊が戦場で何をしているのかについては、実は聞き伝えのイメージの世界にすぎない。彼らにとっては砂場やブランコの方が実感を伴った遊びなのだ。
保姆(ほぼ)自身が当時の戦局に心奪われていた様子も見られる。昭和13年10月25日「漢口陥落目睫(もくしょう)に迫るの号外に胸一杯。御旗を頂き、明日の園外保育に持って行かうと話し、明日の御支度す」と書かれていた。


[図8-4] 兵隊ゴッコ(昭和17年)
南山幼稚園所蔵