昭和16年12月8日、真珠湾攻撃の日の日誌には、「本日未明、西太平洋に於て帝国海軍軍艦と英米艦隊と戦闘開始せり。次々と臨時ニュースあり。会集(中略)今日の戦闘開始のおはなしをなし、気持をひきしめる」とあり、緊迫した雰囲気が伝わってくる。翌日9日は「各組お遊戯会練習、森川先生唱歌部研究会なるも灯火管制のため中止となる」、10日「会集、宮城遥拝、黙祷をなし太平洋戦争、フィリッピン爆撃のおはなしをなす」と書かれている。さらに、「(イギリス戦艦)プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス号撃沈のおはなし」(12月11日)、「独伊の米宣戦のおはなし、日、独、伊のおはなしをなす」(12月12日)と連日のように子どもたちに戦争にまつわる話を聞かせていた。
同年12月19日にはお遊戯会を催すことになっており、「さうだその意気」という国民を戦争に鼓舞するための歌を園児に練習させているが、園長の指示でこの歌は歌わないことになった。その理由はわからない。また、お遊戯会の内容はよくわからないが、園長は「兵隊の様な遊戯はてきぱきと」とも指示している。戦争に関連した内容だったのだろうか。お遊戯会は保護者が多数来場し盛況であった。翌20日「今日は先生も子供も何となくのんびりと運動場で思ふ存分おあそびをつづける」と日常の園生活が描かれている一方で「午前十時半氷川神社戦捷祈願をなす」とも記録されている[図8―5]。
12月24日終業式にて「園長先生から園訓のおはなしあり。(中略)朝早く起きて宮城遥拝をなし、兵隊さんにありがたうと御礼を言ふ様とのおはなしがあった」こうして昭和16年の暮れを迎えた。
日米開戦から2年半が過ぎた昭和19年4月の日誌を見てみよう。4月8日の日誌には「会集 大詔奉戴日のおはなし。最敬礼、祈念の意義をおはなしして後、一同してなす」、4月11日「警戒警報発令の想定の下に防空頭巾を冠り各町別に避難室に入る」。4月16日「会集 神棚奉仕、礼拝の方法」と、戦時中の身の振り方を園児に日々指導していた。しかし同日、東京都次長より区長宛の通牒(つうちょう)「公私立幼稚園非常措置に関する件」により、全幼稚園が休園することとなった(1)。
4月28日には休園に関して保護者会が開かれた。「十時より、保護者来園、戦時非常措置による保育の中止に関し園長先生よりお話あり。一年母の会費納入の方は十一か月分お返しす」。そして4月29日「天長節拝賀式挙行、最後の式、練習一回の割にはよく出来た」、戦前の園日誌はここで終わっている。この後、南山幼稚園は園児疎開措置に伴い、休園となった。
南山幼稚園園長小林操と保姆4名は同年5月30日まで残務整理に追われ、その後は「必要な方面へ配置転換」することとなった(2)。