東洋英和幼稚園保育日誌の特徴は、子どもの固有名詞が多く取り上げられ、その日の様子が細かく記載されている点が挙げられる[図8―6]。一方で、キリスト教に基づく幼稚園でも、国の祝祭日には、それにちなんだ教育活動を行っている。例えば、昭和13年(1938)4月26日は「招魂祭でおやすみ」、28日「明日は天長節なので、どの組も日の丸のハタを作りました。一の組はよくぬれました。二の組のBは大きいのを作りましたが、丸くぬるのは六ヶしう御座居ました。よいお天気で庭でたくさん遊びました」と書かれている。そして翌日4月29日の記録は、以下のようであった。
今日は天長節です。
皆ハタをふって歌ひました。よい子で元気に丈夫に大きくなって、日本お国のお役に立つ人になりませう とお祈り致しました。式だけで十時帰へりました。
昭和天皇の誕生日を心から祝い、一同で「お国のお役にたつ人」になるよう祈ったという。
前年、昭和12年の日誌を見ると、12月14日に「今日は南京かん落の日。一の組二の組のお友達は明日の旗行列の為に旗をつくりました」と記載されている。同年12月上旬、日本軍が中華民国首都南京での戦局を優勢に進め、新聞各紙には「南京陥落奉祝」の文字が躍った。南京戦の勝利を祝って、日本各地では旗行列や提灯行列が行われたが、東洋英和でも15日に旗行列を実施していた。
同日の日誌には、「朝から旗行列で先生はじめ落ちつかない」と記されている。東洋英和女学校の女学生たちが校旗を先頭にしての旗行列を先導し、園児も「昨日作った旗をもって」行列に加わり、行進の途中何カ所かで万歳三唱をし、兵隊を励ました。園児たちは「兵隊さんに『坊や足はいたくないの』などいたわられて大喜び、九時半に出かけて十時半かへって来た」。兵隊が普通に身の周りにいて、戦争に関する出来事が日常だったのだ。
同年12月17日は、「今日は師範科の方が傷病兵のための白衣をぬふためにいそがしいので栄養食はおやすみ! 牛乳後、一の組の一同は女学校の方々の白衣製作見学にゆく。見学が大変に皆にかんげいされて、おうたやおゆうぎをおみせして来た」と、女学生たちの奉仕活動を園児が見学に行っている様子が記されている。
同じ年の12月19日はキリスト教の幼稚園らしく「メリークリスマスとかいたカードを一人一人にわたした」が、翌20日には「朝は一、二組とも慰問袋に入れる絵をかいた」、さらに12月21日の記録を見ると「戦争遊びに、ままごとに、冬の日を浴びて子等は楽しむ」と、さりげなく書かれている。子どもたちは、普通に戦争遊びを園で行っていたのだ。
12月22日の記録からは、「楽しいクリスマスのお祝いを致しました。お母様方皆そろって幼い方と祝ってくださいました。お歌もリズムも皆楽しく一生懸命によく出来ました。大きなツリーの下でサンタクロースのおじいさんからおくり物を戴く子供達の顔はよろこびではちきれそう」とある。ここからは、明るい雰囲気でクリスマス会を過ごしている様子が伝わってくる。
昭和13年1月11日の記録には、「各グループに落ちついて絵をかいたり、積木、人形、カルタと楽しいときをすごす。今日は英語のはじめてのけいこがあった」とあるように、東洋英和幼稚園では、英語のクラスがあった。また、同年4月15日の記録には「今日は大きな積み木で遊びだした。絵も少しかいただけで子供たちは自由によくあそぶ。(中略)思いっきりあそび、牛乳の後少し遊んで左様なら。相変らず西洋の子たちはにぎやか」とあるので、幼稚園には西洋人の園児も含まれていたことがわかる。カナダ人宣教師と外国人園児がいる国際色豊かな幼稚園だったが、女性宣教師たちは情勢の変化から昭和15年に本国へ帰国した。
戦局の展開する昭和13年でも、1月31日の記録からは幼稚園の平穏な様子が伝わってくる。
昨日の雪は上って、あたゝかい日であった。外で朝から雪合戦をする。九時半、会衆。浦口先生も加わって。うすむらさきのヒヤシンスを観察したり(中略)リヅムもなんの事はない、皆浦口先生の後をついて歩いて大喜びをした。牛乳後も皆一緒に雪を取って遊ぶ! 自然のめぐみ、どうぞ元気で自然にやしなはれてゆこうではないか。
ここには、自然の恵みを受けて、のびのびと園児が育ってほしいという教師の願いが込められているといえるだろう。
一方で同年2月15日には、「今日は久し振りに暖かなので朝庭に出て遊ぶ。お庭のヒヤシンスや水仙の芽が大きくなっているのを子供たちと見た。お池の氷もないが何故と聞く子供もあった。戦死者の遺骨を迎へて少数の子供らは電車通りまで出た」と書かれている。ここからも、日頃の穏やかな暮らしの中に、戦争が身近にあったことがわかる。7月8日の日誌には「十一時クラスクラスで慰問袋に入れる絵をかいて、さよならをした。午後山下先生来られて、調査の結果をまとめられた。慰問袋六十八個を集する」とある。さらに12日には「福島先生と一組のMちゃん、Yちゃんの三人は集まった慰問袋の中五〇許りを陸軍省へ持って行った。皆御見送りをした」と書かれているように、園児は幼稚園の活動内で兵隊のための慰問袋を作る作業をしているのだった。
昭和16年3月には、敵国を表す字の入っているのが好ましくないため、校名が「東洋永和」と変更になった。
[図8-6] 保育日誌(昭和12年11月)
東洋英和女学院提供