昭和16年(1941)12月8日の保育日誌は、次のように書かれていた。
日米英戦争終に午前六時のニュースで発表がありました。
今日は一日中幼稚園のラヂオをつけてこの状態をうかゞっておりました。とうとう来るべきものがやって来て、日本中全国民ふるひ立上りました。
朝子供達はいつもの如く元気に幼稚園に来ました。子供達は平気でいつもの様に無邪気で過しました。私達は、この非常時局にあたってほんとうに第二の国民がよき日本人として立つ様に、今銃後にあって子供保育のため戦地にある気持と同心で責任をもちその仕事に邁進しなければならないと思ひました。
翌9日の保育日誌では
幼稚園に子供達が元気よく来ますので大変嬉しいと思ひます。今朝は子供達にも日米英戦争の起った事を話し、この時にあたって子供達はお母様や先生の云はれる事をよく聞かねばなりませんとのお話がありました。
クリスマスも楽しい雰囲気の中に過すといふ程度に致す事としました。
日米開戦後も、クリスマス会の準備は行われていた。また、次の記録(12月10日)を読むと、ピアノやクリスマスなどの欧米語が普通に使われていることもわかる。
朝、鳩の組の男児達が楽器をもって来て皆んなでならしましたので、早速ピアノを弾いて合せました。「靴が鳴る」を弾きますと他の子供達が歌が歌ひたくなり、オーケストラに合わせて子供達も歌をうたひました。(中略)原先生が今日はお話の番で、サンタクロースさんのお話をして下さいました。
12月14日の日誌には「今日はクリスマス献金として一人一円づゝもって来て戴き今年は陸軍省への献金をする事に致しました」と書かれているように、陸軍省への献金を集めていたこともわかるが、クリスマス会は通常通りに行われたのだった。
いよ〳〵明日はクリスマスで、今日はクリスマスの色々な歌を歌ひました。クリスマス準備を迎へる途中にあって大東亜戦争の重大時局になり例年の如く特別なプログラムのクリスマスは致しませんが、楽しい平和なクリスマスの雰囲気を作って子供にうれしい印象や空気を与へるためさゝやかながら楽しく楽しく致さうと思っております。(12月19日)
東洋永和幼稚園も、太平洋戦争が起きて戦局への配慮を見せるようにはしているが、南山幼稚園のように、連日戦時に関するお話を子どもたちに聞かせる様子はなく、クリスマス会もささやかながら楽しい会にしようと計画されていた。南山のように、お遊戯会で戦争を意識させるような内容を取り入れることはなかった。