東京府私立幼稚園協会は戦時体制への協力姿勢を示すために、独自の方針をたびたび表明している。昭和18年(1943)11月には「幼稚園防空対策要項」が公表された(3)。その基本方針は次のようなものであった。
一、幼稚園ハ平素充分ナル準備ヲナシ、防空教育ヲ徹底シ、空襲ニ対スル誤解恐怖ヲ一掃シ以テソノ処置ヲ誤ラザル様努ムルコト
二、幼稚園教育ハ危険ナル場合以外ハ継続スルニ努メ、当局ノ指示命令若クハ園舎ノ破壊焼失等万止ムヲ得ザル場合ノ外、幼稚園ヲ休園セザルヲ原則トス。
三、幼稚園ハ所在地域ノ所轄警察及ビ各種防護団体、町会及ビ家庭ト緊密ナル連絡ヲトリ園児ノ身体ノ安全ヲ図ルヲ以テ主眼トス。
南山幼稚園をはじめ公立幼稚園は昭和19年度早々に休園となったが、東洋永和幼稚園は同年より、戦時保育所として活動を継続した。背景には、同年4月東京都私立幼稚園協会が出した「決戦即応保育体制ノ件」という通知があった。その趣旨は次のようなものである。
今ヤ国ヲ挙ゲテ決戦体制ニ就キ一般家庭ニ於テモ増産ニ町内勤労ニ所謂国民皆働ノ時幼稚園モコレニ即応シタル保育体制ヲ採ラザルベカラズ(中略)御加盟各園ニ於テモ出来得ル限リ、同一歩調ノ下ニ保育ノ切替ヘヲナシ以テ幼児教育ニ挺身サレンコト希望ス(4)
昭和19年11月に戦時保育所は開設された(5)。主任は功刀(くぬぎ)嘉子(よしこ)が担当し、他に宮崎千恵子と東洋英和保姆(ほぼ)養成所実習生3人で保育を行った。「子ども達は以前の幼稚園児二名のみ残り、あとは三河台、飯倉付近のお店屋さんの疎開できなかった子どもたちが防空頭巾を肩から下げて、殆ど下駄履き・もんぺ姿で、皆、目を輝かせて登所してきました(6)」。昭和19年12月2日の保育日誌には、18人の出席と記録されている。この日の流れは次のようになっていた(引用部に時間の重複などが見られるが、原文通りとした)。
九時―九時四〇分 コルク積木(飛行機)、辷(すべ)り台、人形ゴッコ
九時四〇分―一〇時一〇分 歌、リズム
九時四〇分―一一時 お仕事、お手洗ひ
一一時―一一時二〇分 外遊(ブランコ、砂場、池等)
一一時二〇分―一一時三〇分 ひるね、おかへり
しかし昭和20年3月10日の東京大空襲で、保育所の建物は残ったものの、子どもたちの家はほとんど焼失してしまい、保育所を続けることは困難になった。